絹の生産は紀元前3000年頃の中国で始まっていた。伝説によれば黄帝の后・西陵氏が絹と織物の製法を築いたとされ、一説には紀元前6000年頃ともされる。
伝説
「黄帝」の皇女が繭をもてあそんでいて湯の中に落とし、それを拾い上げようと糸を手繰ったことが絹の誕生のきっかけ。
中国以外の地域では養蚕や絹の製法は伝わらず、中国から陸路・海路でインド、ペルシア方面に輸出されていた。これがシルクロード(絹の道)の始まりである。紀元前1000年頃の古代エジプト遺跡から中国絹の断片が発見されているほか、古代ローマでも絹は上流階級の衣服として好まれ、紀元前1世紀にエジプトを占領すると、絹の貿易を求めて海路インドに進出、その一部は中国にまで達した。
絹の製法は6世紀に、ネストリウス派を通じて東ローマ帝国に入った
→それだけの価値がありながら、それまで門外不出が保たれたのは驚異。
中国人たちはあらゆる手段を講じてそれを秘密にしておこうとつとめた。
その手段の一つは、わざとまちがった情報を流すことだった。
たとえば、その糸は羊に毎日水をふりかけてやるとできる。
水をかけているうちに、もともと太くてあらい毛が、長く細く、美しい毛にかわるのだという物語を広めた。
日本には弥生時代には既に養蚕と絹の製法が伝わっており、律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたが、品質は中国絹にはるかに及ばず、生産は徐々に衰退していった(室町時代前期には21ヶ国でしか生産されていなかったとする記録がある)。このため日本の貴族階級は常に中国絹を珍重し、これが日中貿易の原動力となっていた。明代に日本との貿易が禁止されたが、この頃東アジアに来航したポルトガル人が日中間の絹貿易を仲介して巨利を得た。
絹の布をこすりあわせると「キュッキュッ」と音がする。これを「絹鳴り」という。繊維断面の形が三角形に近く、こすり合わせたとき繊維が引っかかりあうためで、凹凸のないナイロン繊維ではこの音はしない。