ものを書いているとき、常に考えるのは「これ」が読者に正確に伝わるのだろうか、いや、そもそも「ちゃんと」読んでくれるのだろうか、ということである。
ネット小説、とくに「ライトノベル」とされるものは、小難しいことを抜きに手軽に読めるスナック菓子ほどの扱いで良いとは思うし、そうでなければ無名の素人作家の作品なんて読まないのである。
とはいえ、書くほうとしては、さまざまな工夫を凝らしたり、言葉を選んだりと自分の「命の時間」を削って書いていたりもする。
たまたまネットで取り上げられていたので、さっき読み返したのであるが、こんな本がある。
『わかったつもり~読解力がつかない本当の原因』(西林克彦・光文社)
塾屋をやっていたころ、保護者からの相談で実は多いのが「読解力」のハナシだったりする。数学や英語なんかは対処方法は明確で、どこで聞いても似たような返事がかえってくるはずだ。でも、ことに「国語」となると誤魔化し出す同業は多い印象だ。
とりあえず「読書」みたいなことで「逃げる」場合が多いのであろうけど、ただ漫然と読みつづけたところで「読解力」なるものは向上しない。語彙が増えたり、文章なれしたりはする。そこから読みの精度を高めていく方向に向かってくれたら良いのであるが、たいてい人というのは自分に都合の良い読み方をする。
これが試験や契約書なんかの文を読む場合は真剣に読むのであろうけど、私的な愉しみで読む場合には、よほどの目的でもない限り「ちゃんとした」読みなんて行われない。
読書は脳内での個人的な処理であるため、子どもが本に夢中になっていれば大人は満足する(たとえとんでもないことになっていたとしても)。まあ、本に向かわせるところまでがひと苦労なので、そんな贅沢もいってられないのだろうけど。
そんな中でこの『わかったつもり』は明快である。
小学校低学年が読むような文章の例からはじまって、説明がすすめられるけども、大人も含めてどれだけいいかげんに文章を読んでいるかが分かる。この本に書かれていることが理解できれば、まわりの大人のザンネンな読みの状況にも「ああ、あれか……」と一定の理解(?)を示すこともできる(プラス広いココロ)。
モノ書きはその読み手の「わかったつもり」を意識すればよいのかといえば、そうでもない。どんなに誤読を防ごうにも読む側はその上を行く。まあ、肯定的なものであればそのまま好意的に受け取れば済むのだろうけど(モヤモヤは残るけど)、良くわからないクレームを受けたりすると辛い(いまのところキツイのは無いけど)。それが自分の文章に起因するのであれば反省し改めれば良いのであるが、読み手の「読解力」によるものの場合は、そういう読み手もいらっしゃるものだと諦める他はない。(文章内容を小学校低学年レベルに下げたところで同じであるから)
この本の内容を、ここまで一切書いていないけれども、じっさいこの読み手の「わかったつもり」がクセ者であるので、モノを書く人は知っておくと自分にとって「謎のコメント」なんかを頂いたときの「ああ、そういうことね」が分かるはず。
他者のコトバを気にしない鉄のハートをもっておられる方には必要ないと思うけど、気になってしまう方にはおすすめ(お子さんのいる方も)。
あと、後半に前に近況でのせていた中原中也の「月夜の浜辺」も扱ってた。詩なんかは特に文章界隈でいう「自由に読めばいいんだよ」的なことが適用されるのだけれど、それについても(以下引用)
①整合的である限りにおいて、複数の想像・仮定、すなわち「解釈」を認めることになります。間違っていない限り、また間違いが露わになるまで、その解釈は保持されてよいのです。②ある解釈が、整合性を示しているからといって、それが唯一正しい解釈と考えることはできないのです。③しかし、ある解釈が周辺の記述や他の部分の記述と不整合である場合には、その解釈は破棄されなければならないのです。
ごく普通のことが普通に書かれている。こういう制約条件は当たり前にある。カクヨム内のどなたかの作品を批評する場合があったとして、想像を逞しくして良いが、批判的なものを書くのならかなり覚悟を決めて、真剣に作品と向かい合わなければ、その(マイナスの)レビューは自分へとかえってくることになる(だいたい見かけるのは捨てアカみたいなのですけど)。これを読んでいるみなさんにはまあ、関係なさそうなのですが念のため。
えっと、あとはウェブ小説では高い読解力なんて期待しないことです、ってのもオマケでつけておきます。
今日は、本のオススメが続きましたけど、みなさんには必要なかったかもデス。
脇道にそれた読書で、執筆がすすんでません。ちょっとエンジンかかってきたので、ここから頑張って書こうと思います。
では。