思うに、生物は協力するものだと遺伝子に刻み込まれている訳であります。草食動物であれば共に群れを成し、生存確率を上げる。肉食動物では互いに協力して狩りの成功率を上げるでしょう。縄張り争いはあっても、真の意味での殺し合いにまで発展するのは稀です。
種を保存すべしと遺伝子に刻印されていると言えるでしょう。
しかし、ある一定の知恵をつけ始めると少し話が違ってくる。協力関係に理屈を求める様になる。逆説的に同族殺しにも一定の合理性を見出す様になる。自身を果ては共同体を認識し、遺伝子に刻み込まれた文字を合理性によって覆い隠せる様になってしまう訳です。
知恵こそが協力関係を強固にし、その一方で協力関係を遺伝子以上の理屈を要求するより困難なものへと変えた。
そう論じられるかもしれません。よく分かりませんが…
まあ、そんな長ったらしい弁舌は置いておくとして、物語を書く上で登場人物が仲間を作る場面が出てくる場面がそれなりに生まれます。ドストエフスキーの引き籠り小説である『地下室の手記』にすら外部とのやり取りが描かれるというのに、普通の小説で書かれないわけがない。そういうものでありましょう?
では、こんな変わった登場人物が出てきて、コイツはこんな辛い身の上で、お陰でこういう性格で、云々と複数の登場人物の設定が書き上げられ、ある場面に於いて彼等が邂逅したとしましょう。勿論、物語上で。
そこで赤の他人である彼等に手を取り合わせたいと作者は考えます。(家族や同僚という状態だと既にある種の協力関係にあるので話が別になります)
此処で、特に理由もなくみんながビートルズを歌って手を取り合ってくれるなら、何も困った事はありません。めでたしめでたしでしょう。
しかし、如何に理屈づけるか?という段になると途端に物事は難物と化します。
人物を深く描写すればするほどに対立する要素は増え続け、対して、協力する要素については予めその目的で描写しなければ理屈としては弱いままになってしまうのです。
例えば、共通の趣味、センスの良い服、朗らかな人柄など、この人物があの人物の特徴を好きになる。というのは、余りにも感情論であり、フィーリングであり、共同体としての協力関係を結ばせる原動力としては弱い様に思えるのです。まあ、何処ぞの聖人の如く普遍の愛を信奉し、それで世界を救えると考えるなら、その限りではないでしょうが…現状の世界各国を眺めるとそうでは無い感じがしますね。
協力関係を結ぶ動機として、良心という言葉で片付けるのが最も単純で容易な手段です。誰もが持ち合わせる互助の精神。しかし、舞台設定によっては性善説が機能しない場合がある。例えば、世界恐慌真っ只中とか、核戦争後の世界とか、異国のスラム街の中心とか。
荒廃した世界で行幸に巡り合うのは、時に物語の納得性を損う場合があることを忘れてはいけません。それは俗に言う、御都合主義というヤツです。
では、如何に自然に都合をつけて人々を結び合わせるか?
思い付く中で最も分かりやすいのは外的要因を絡ませる事です。
人物の性格が如何様であろうとも、差し迫る共通の問題、或いは共通の利益は、人々を内面の対立を度外視して結び合わせる理屈足り得るのです。
シーアだのスンニだの言っていても、シオニストが眼前に現れると途端に手を取り合う。つい百年前まで侵略戦争で争っていても第三帝国が現れると途端に手を取り合う。
彼等にとって、それは歴史的蟠りを度外視しうる程に合理的な事なのです。そして、第三者からしても納得性のある出来事だと納得出来る事でしょう。
そういう訳で、作者が思い付きで作った物語で登場人物を纏める為には、適当な外的要因を出現させる事が最善の方法だと愚行致します。唐突過ぎるのは、まあ結局御都合主義ですが…
余談。数え切れない対立と協力を繰り返している我々人類ですが、はるかに長いスパンで見れば少しずつ繋がっているとも思えます。だって、何処ぞのテロリストが為替を愛す様に我々も為替を愛せるのです。そしてその逆も同様に。
072:団結②
https://kakuyomu.jp/works/16818093076419237442/episodes/16818093082522974339