お疲れさまです。
吉野諦一です。
今日は批評についての本を読んでいました。
それはデスクの上の見える場所に置いてあるので、月に一度は読み返しています。
小説投稿サイトはとても気軽に感想を書ける構造になっていますから、書こうと思い立ったらすぐに書けるよう、いつでも基本を振り返られるようにしているのです。
何とはなしに開いたのが扉の頁で、そこには引用文が載っていました。
引用の引用になってしまうのでここには詳しく記しませんが、マルセル・プルーストの名著『失われた時を求めて』の第七篇から引かれた文章でした。
ところでこの第七篇は大河的長編小説の最後にあたるのですが、小説そのものについての考え方を示唆する言葉も多く載っています。
これも詳しく書き過ぎるとネタバレになるので我慢。
内容をざっくり知りたい方はウィキを見ていただければ。
なんだかくどくてもったいぶった話になってしまいました。
僕が思ったのは、批評を書くのも小説を書くのも、それなりの背景があってのことだということです。
小説投稿サイトにおいて読み手の多くは書き手でもあり、その逆も然りです。
だから批評を「書き手に阿って書く」ものだと考えることは自然なことなのかもしれません。ネット上に掲載される批評の多くはそうして書かれたものであるように感じます。
しかし本来の『批評』とは『普遍的価値を定めるもの』だと僕自身は考えています。原理主義を謳うつもりはありませんが、同じ『批評』を称するものでも認識に差異が生じる部分があり、またそれが火種になってしまうことがある、というのは少し悲しいすれ違いですね。
長ったらしくて面倒臭くなってきたので、今日はここまでで筆を擱きます。
気が向いたら、またこの話の続きをするかもしれません。
それでは。