こんにちは。
呉座勇一センセの「歴史に学ぶくらいならワンピースを」は、史学方面やら物語方面でうんにゃらと難しい議論になっているようですね。
議論が起きたのはよいことだと思います。
色々勉強になりますから、
どっちも頑張って下さい。
で、
アタマが反応したのでメモ書きなんぞ。
※
史学側から見た史実を振り回すヤバさはたぶん、「かつてこういうやり方で成功したから、今回もこうすればうまくいくはず」みたいな援用の誤りなんでしょうね。
未来は常に不可知です。
あたりまえですよねえ。
あーたーりーまーえー。
それに対して過去の類似例を引いてきて自説の傍証にする、コイツがたぶん一番危ない。
その対局にあるのが韓信の背水の陣の逸話で、こちらは「死地に陥れて然る後に生く」という原理を適用しています。
これはニンゲンの生存本能に関するハナシなんで、条件が変わっても「死地」では同様の反応が期待されます。
反応しないと、死にます。
つまり、条件には左右されないわけです。
それに対して類似例は同一条件下では再現性があるかも知れませんが、そもそもさまざまな条件が完全に一致なんてことはないわけでして、やっぱり違います。
だから、援用するにもそれが適切かの検証は大変に煩雑ですし、たぶん難しいでしょう。
そのあたりが、類似例と原理の汎用性の違い、ということかも知れません。
※
にしても。
個人的見解では、歴史小説もフィクションでありワンピースと同じく物語側に入ると思うのですけど、歴史小説はそうじゃないという方がおられるのか、ちょっと気になります。
歴史小説=史実???
いや、それだけでは物語として面白くなりにくい気がしますし、むしろ作家の腕の見せどころは、史実を元にしてどれだけリアルで感情を揺り動かすウソを吐くかだと思うんですけどね。
読んで面白くて、史実を確認してどこが創作かを知る。それにより歴史と作家性の双方への愕きと敬意が生まれたように記憶しています。
その具体例が本サイトの下記二作です。
【漢文超訳】襄陽守城録―最前線に着任したら敵軍にガチ包囲されたんだが―
氷月あや
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884171637守城のタクティクス
氷月あや
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884546369前者はガチ翻訳準拠で訳文だけラノベ、後者は創作を交えた歴史小説、個人的には時代小説的だと思います。どっちもオモシロイです。
ちなみに、
歴史小説と時代小説に優劣はないですよ。
取り扱い対象が違うだけです。
史実は魅力的なリフではあり得ますが、楽曲の質はそれ以外のところにあると考えたいのですよね。
そういう意味では、史実の追求と物語の構築は明らかな別フィールドですから、混同してグチャグチャならないとよいのですが。
史実は検証可能、創作はそこに縛られない。
史実を扱うなら検証可能な方法でやるべきであり、陰謀論のようにヘンチクな人間関係とかを持ち込んで検証不可能にしてはならない。
情報を扱うには、それなりのやり方、つまりマナーがあり、マナーに沿わない扱い方では意味がありません。
※
でも。
陰謀論も楽しいからやるなら物語でやりましょう。
『読史の断片録』はどっちかというと陰謀論寄り。
ってか穴だらけの妄想に近い気もしておりますね。
それも面白ければありだと思いますけど、
それはまあ、あくまで面白ければですね。
面白ければ。。。ううっ。
※
どうでもいいハナシですが、
完結した暁にはタイトルを
『続三国志No.─原書名─』
に変更の予定でございます。
3までやるかは未定ですが、
今のはちょいキモチワルイ。
つまらない理由ですみません。