わたしは何のために小説を書くのか。
最近、原点に立ち返ってそんなことを考えています。

誰かの日々に彩りを添えたい、人生をほんの少しでも豊かにするお手伝いをしたい。
そう思ってきましたが、なんだかそれって表現者のエゴじゃないのかなあ、と再考する余地がある気がするのです。

小説を書くのは、楽しい。読んでもらうのは、嬉しい。
楽しいから書く→それを読んでもらえる→嬉しくなってまた書く→また読んでもらえる(なんなら収益化する)→……
表現欲求も承認欲求も満たされながら循環してゆくなんて、こんなにうまい話があっていいんだろうかと、時折怖くなるのです。
(なりませんか? 書き手の皆さん……)
もちろんそれなりにリソース割いてやってるわけですから、ただの娯楽ではないのですけれど。

いわゆる「生みの苦しみ」は当然あります。アイディア出しから改稿や校正まで、苦しさを伴う作業や時間はいくらでもあります。
でもやっぱり、楽しいから書いているわけです。書きたい欲求に抗えないから、商業化するしないにかかわらずわたしたちは手を動かしてしまうのではないでしょうか。
「本当は文章を書くのなんて大嫌いだけど、どうやら人より優れた文才があるらしいから生計を立てるために仕方なく書いている」という人も世界のどこかにはいるのかもしれませんが、少なくとも自分の観測範囲には見当たりません。
日常的に書いている人は、やっぱり少なからず書く喜びを知っている人に違いないと考えます。


それにしても、暮らしに即役立つ実用書や仕事に即生かせるビジネス書ではなく、誰かの思想に直接影響するようなコラムや指南書でもなく、どうして小説を読んでもらえるんだろう。
何かに役立っているのかな。生産性はあるのかな。「おもしろい」と思ってもらえるだけでいいのかな。
役立つことだけがすべてじゃないのは理解しているけれど、自己肯定感の低さゆえか、そんなことにまで思考はめぐります。
特に、世界の抱える問題や、社会の不浄やしがらみ、SNSの向こうや身近で苦しむ人たちに思いを馳せるとき、小説なんて何か役に立つんだろうか、もっと実際的に他人を救うようなメッセージを発信しなくていいのかと悩んだりします。

その答えは、自分の読書時間にありました。

個人情報の関係や自分の性格の問題から、わたしは自分のプライベートについては2%くらいしか公に発信していませんが、現実とは日々戦っております。
普通ではない、普通になれない、そもそも普通ってなに、そんな問題を抱えて生きています。
思考に空白ができると、水が低きに流れるように悩みや不安が容赦なくなだれこんできます。
これは苦しい。

そんなとき本を開きます。実用書でもビジネス書でも指南本でもなく、小説を手に取ります。
物語に引き込まれ、読んでいる間は現実のしがらみを忘れます。魂が作品世界に出張してゆきます。
だから、リアリティのある作品が好きなのかもしれません。こっちの世界の方が現実なのでは? わたしの現実なんて仮の世界なのでは? とまで思わせてくれるほどすごい作品もこの世にはたくさんあります。このカクヨムにも。

読書をすればするほど問題解決が早まるわけではありません。人生に役立つメッセージが用意されている保証はありません。
でも限りある人生において、悩んでいる時間は1分でも1秒でも短いほうがいい。

1日のうち平均3時間くらいは悩んでしまう人がいたとして、そのうち1時間読書に没入したら、その日は2時間しか悩まずに済んだことになる。

あまりにもシンプルなことでした。
昨夜も買いこんだ本を読みながら、わたしはそのひととき、救われていました。
心にモルヒネを打たれたように、ネガティブな思考は止まり痛みは麻痺していました。

書く目的も、読む目的も、人の数だけあります。
少なくとも今、自分も誰かにとって、魂の出張所になる作品を生みだしてゆけたらいいなと思っています。

画像はこの夏のために買いこんだ文庫たちです。
書棚を整理して若干のスペースができたと思ったらもうこれなので、夫にも呆れられています。