今住んでるところは、ちょっと床を高くして建っているので、あの冬独特の「うっ」という寒さがないです。どうして冬に備えてない建物が多いんでしょう。いま、九州地方で雪がわさわさ降ってるみたいで、建物が北極みたいに寒くなってないか、心配ですね。あれは小学生でも寿命ちじみますよ~(あ、、当たり前か、、)
さて、東京は緊急事態宣言が出て、一応は世間はおやすみモードです。わたしが住んでる郊外は、十分な距離が取れるので、いつもどうりです。信じられないことですが、23区は距離が取れないので(まじで)とにかくマスクと消毒をお守りのようにつけるしかなくて、超疲弊します。でも、完璧じゃないですよね。マスクも消毒も。残念ですけれど、条件によって右へ左へ結果が動くので、いちばん頑張って人のために動いた人が無力を感じます。交通機関ごと止まったわけではなく、実質移動は自由なことと、それなりに対策して動いたとしても、いまは感染しやすいので、人の移動と、ダブルスタンダードで動いている私たちの行動の集積が、悪いほうへ止まらなくなっているかんじです。
ニュースなどを見ていると、「とにかくはっきり言って、わたしたちを導いてほしい」という気分を濃厚に感じます。作り手の正直な気持ちかもしれないし、民意とやらを一応は反映しているのかもしれません。しかし終始ディベートになってしまい、今は見ている人も、それほど注目しないでしょう。勝ち負けでも、結論を出す場面でもなく、現状を把握して、そのうえで何ができるのか、うまくいかなかったとしても続けて、その場で起こっていることすべてを天秤にかけて選んで進むことしか、できないわけです。そのうえで手を打つことが行政の仕事だったはず。失礼ですけれど、ちょっと今は能力がないのかな、と思わざるを得ません。言葉での意思疎通も、厳しいのでしょうか。それは政権の問題だけでしょうか。
こうして素人なりに長い文章を書いていると、客観と自己をものすごく行き来します。このニュアンスでは、見る人の意識にはこう映ってしまう、ということが多々あるからです。それから、自己というものを頑なに信じることの危うさもあります。よく本人が言ったことしか信じない、という人がいますが、その言ってる本人でさえも騙せる怖さが、私たちの内面にはあるからです。自分にとって都合の悪いとき、どれだけ客観的になれるものなのでしょうか。どうしても歪んだ見方が入り込むはずです。
小説を読むことは、他者を理解することと近いものがあると思います。それは書き手が、すべての自分の思いをぶつけているというわけではありません。どうしても言えなかったこと、言葉のない、名付けることが出来ない思い、そういうものにじりじりとにじり寄って、書き手でさえも予期できないものに出会う行為、それが小説を読んだり、自分でも文章を書いてみたりする、柱のようなものだったと思います。
でもそれにはどうしても、長い道筋が必要になります。ずーっとハイライトや楽しいところが続くわけでもなく、ずーっと興奮するようなこともないです。クラシックの曲目みたいに、一から十まで我慢して聞いてはじめて素晴らしい瞬間が訪れるもので、相性がいいと、最初からすばらしく、ずっと夢見心地なこともあります。小難しいこというと、小説は時間の芸術だったと思います。
言葉の理解には時間がかかりますが、小さなころから想像力がわたしたちにはあって、音楽が鳴っている間、文字を追っている間、音に、言葉に影響されて、好き勝手に空想を広げて、意味も分からないまますべてを飲み込むことが、ちいさな子にはできます。大人になるにつれてさびついてきて、準備運動が必要になります(悲しいときに音楽を聴いたり。笑)。はじめて出会うもの、わからないものを受け入れる能力がさび付いてきて、それが組織で活動するのにはうってつけの面もあります。変なひとを喜んで雇ったり、お国柄の違う人とも意思疎通できるひとは、大人であり、子どもでもあるのだと思います。
この話の結論はなしです。笑