あっという間でもなく12月のなかばに入りました。さいきんはTwitterのほうで近況を綴ることが多くて、ここの更新はおろそかになってしまいました。散文がじつは超苦手なので、あ、ちょっと億劫だなと思うと簡単に遠ざかります。
散文の一番の特徴って、レンガ積みみたいな作業があることと、あと言葉を並べたときの印象を全部そろえていくみたいな作業があると思うのですが、なんか捏造っぽくて、はっきし言って、言葉をそれらしく並べた文章とどないな違いがあるねん、と散文に縁がない人ほど見抜いていると思うのですが、そうなんです、あまり違いがなさそうなぎりぎりな危ない綱渡りを散文は(?)やっているのです。興味のない人には微差、興味のある人には歴然とした差がある世界、それが散文です。(バーン)
どうして読んだ人がこれいいなと思う文章と、そうでない文章とに分かれるのか、なんか目に見えない人徳のようなものなのか、それとも夜空にきらめく星のような才能を持つひとがわずかではあるがいるのか、全然わかりません。とてもじゃないけど、毎日ねちねちと机に向かっている作家さん全員に才能があったのなら、商売にならないと思うし、価格競争がもっと激しくなっているはずです(たぶん)。つまり、なんかいい感じに書いてあればOKな注文と、なんかわかったように読者をさせてくれればOKな注文と、まあ金にならんが文化の発展のために君の散文に投資をしよう、という注文とに大別されるからです。とても平和的な合意が出版社で形成されているのだと思います。定期的に散文を仕上げる人のすべてに、出版社が才能を期待しているわけではないことがよくわかります。商売だから、バランスよく両輪を使って走らせる必要からです。
だから本離れとか言われて久しいですが、ま、しょーがないかなと思います。だって、小泉今〇子とかビートた〇しのほうがはるかにいい文章書いてるし、出版社の定期メンツがなんかつまらない、毒にも薬にもならん文章書いてると言われちゃうと、ぐうの音も出ません。思ったよりも誰でも書けるんじゃね?という風潮もここ十年くらいで顕著になりました。
だからまあ、誰でもネットで書いたらいいし、AIにも小説書かせたらいいと思う。でも、それらのものを喜んで読んでくれる人の教育は、たぶんだけれど誰も考えてないんでしょう。出版社は知的な伝統を提示し続けることで、読者を生み育てていたと思います。
5月くらいからカクヨムでの更新を続けてきて、小説は7つ、近況ノートはこれで27になりました。全部7でそろえようと、サイトを眺めるたびに思います。