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いくひ誌。【421~430】

※日々がどうこう言うの禁止!


421:【乙女しぐさ】
乙女らしくなるためには数々のスキルを身につけなくてはならない。ひとはそれを「乙女しぐさ」と呼んだ――からはじまる小説「乙女しぐさ」なんてものはどうか。主人公は冴えない乙女モドキとしてこの世に生を享けてから十四年、そろそろいっぱしの乙女になろうではないかと、乙女マスターのもとに単身、弟子となるべく訪れる。「そうではない、こうだ!」「こうですか師匠!」「ちっがーう!」「わかった、こうですね」「ばっかもーん!」「ではこうだ!」口にヘアゴムを挟みながら髪を束ねる。そのとき若干目をつむる。「いいぞ、いいぞ、なかなかの乙女しぐさだ、しかしそこはかとなく疑問なのだがなぜにおまえはすべてにおいて蟹股なの? わざとなの? 重りをつけて修行するプロレスラーとかそういうのの真似なの? ブサイクを凌駕するスーパー乙女でも求めてるの?」「あ、あたしプロレス好きですよ、バックドロップとか得意っす」「得意じゃだめだろう乙女として!」かくして主人公は乙女ロードをひたむきに逆走していくのである。


422:【ひょっとしてだけど】
いくひしって性格わるい?(やっと気づいたかばかめ、という声が聞こえる)


423:【欲しているもの】
さいきん気づいた。おもしろい小説がほしいわけじゃなかった。おもしろい物語がほしいのだ。おもしろければその媒体はなんだっていい。極論、虚構でなくてもいい。おもしろい物語、言い換えればこれは、赤の他人のたったひとつの人生だ。


424:【論より証拠をつくり中】
物語の金脈は掘り尽くされた。言うなれば物語に宿る文脈、骨組みはすでに固定され、その限定のなかで肉付けの仕方に工夫をこらしていくほかない。そういった言説がある。果たしてそうだろうか。本当はただ、そういう枠組みをきもちいいと感じるような調教を我々現代人が受けているだけではないのか。これからの作家に必要なのは、新しい物語を探りだすことだけではなく、新しい物語の骨組みを編みだし、そしてそれをきもちいいと感じるように読者の感性をこそ開拓していくことにあるのではないか。AIが囲碁や将棋の世界で新手をつぎつぎに打ちだし、それをして選択の幅をかぎりなく押し広げたように。


425:【落し物】
そのむかし、うんこ、と聞いてお腹を抱えて笑えた時代がいくひしにもあったのね。あの感性、いつどこで落としたのか思いだせません。見つけたら教えてくださいね。


426:【セリフの神が降ってきた】
タイトル:はじめまして。「ほ、ほんとにいいんですか……」「いいよ。そんかしちゃんときもちよくなってね」


427:【呪文】
何かをつよく唱えていないことには、いつだって激しく輝かしい欲求に引きずられてしまう。新しいこと、自由なこと、規格外で既存の枠に囚われないようにすること、すべて意識的でないことには、平凡で馴染みあり、安心して心を乱され、ときに満たされる完成された型を両手いっぱいに抱きしめてしまう。離したくない。だいすきだから。でも、意識して歯を食いしばり唱えた呪文により、旅立たねばならない。或いは、ときに、その行為そのものからもまた。



428:【赤信号明滅中】
過去につむいだ物語を読みなおして、おーなかなかおもちろいんじゃないのー、ってなっちゃった。まずい、これはまずいですよ。ちょっとニブチンに磨きがかかってきてしまった。というか錆びてない? まずいよー。


429:【しんけん】
ふつうじゃないことをドラマチックに描くのは、ふつうだし、王道だ。そこを外さなければ傑作の外枠はまずもって揺るぎないように思う。同時に、なんでもないことをなんでもないように描きだすのは、じつはとんでもなく繊細な作業で、何かを表現したいと欲する者からしてみると、それは毛細血管の縫合にちかしいものがある。たとえば、恋する乙女が自室にて、ふとしたしゅんかんに、無意識のうちでおならをしてしまった。音も鳴らないような、においもない、スカである。が、たしかに彼女はおならをした。誰もいない空間である。しかし彼女は、自身の少女性を自覚できるくらいには美の備わった少女である。彼女は自身がおならをする存在であることを認めがたいものとして感じており、それは彼女の少女性を強固に維持させるために欠かせない触媒でもある。彼女はそこでふと周囲を見渡してしまうが、そこに照れや自己嫌悪のそぶりはない。また、あるときは、排便をしている最中、もしこの状態を意中の相手に見られた場合、かれはそれをどう思うかを想像し、でき得るかぎりこのようなケモノじみた自身をも含めて認めてくれたらという想像を働かせる。それはけっきょくのところ、けっして見られたくない自身のみにくい実情を、それでも見せてしまいたい衝動の顕れであり、少女が自身の少女性に対して、どこかうっとうしく感じ、同時に、しょせん自身にあるものが本質ではなく、外部の干渉から与えられた仮初でしかないのだという諦観が見え隠れする。唇のうえの産毛を処理するとき、彼女はすでに腕と脚と脇の毛の処理を済ませている。同級生よりも毛深いゆえ、だれより丹念に処理をする。仮初だ。偽物だ。少女は少女足らんと格闘する。なんでもない日常である。誰もが通る道である――かつて少女であった者ならば。そういうものをドラマチックに描けたならば、物語の本筋とはかかわりなくしれっと愉快に描けたならば、それはとんでもなくおもしろい物語になるだろう。しかしなかなかむつかしい。さいきん、そういうことばかり考えている。


430:【それはたとえば】
ダンジョン飯4巻で、マルシルが屋根のうえにてどう行動すべきかを思案するコマがある。沈思黙考するその一コマで、彼女は杖をくるりと回している。あれの強烈さはちょっと頭から離れない。あれひとつでマルシルに過去が宿り、性格が滲み、魂が浮きあがった。ああいうのを文章でもたくさんたくさん取りいれたい。とりいれたいのだーわかってくれよーああいうのがいいの! いくひし、ああいうのがいい!

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