人怖を「けしからん」
とする勢が、確かにいます。
それは、昔「絵画」の世界で巻き起こった
裸が有り無し論争
に近いなと感じます。
絵画や偶像、芸術には「裸」が付き物という印象が高いですよね。
まぁ、精神論「ユング」のリビドーから曲線美などもありますが
風紀的にも良くないとされ、人物の裸を禁止する「裸体禁止令」などが出来たりとか
しかし、そこで出た発想が
「いや、これ人じゃないんす。『神』『女神』なんでぇ、いいんじゃないっすか?」
と。
ここの感性と言いますか、考え方の基準といいますか…神聖とオカルトを一緒にするな、という声が聞こえてきそうですが、まぁ逆な意味として「似ている」んですよね(;^ω^)
あ、私はオカルトも人怖も、両方大好きですm(__)m
しかし実際にはさ、神とかも元々は「人」であったパターンが多く、救済者やら革命家やら、指導者やら時の支配者やらが神格化してるように
オカルトや妖怪、怪物も「比喩表現」かのように象徴した結果な事象が多いっすよね?
現代の「救済者」がいずれ、神格化するように、現代の人怖がいずれモノノケ化するかもしれなくて、延長上線にあるモノとしては同じだと、私個人としましては考えております。
ジャーナリズムの観点からで言うと、人怖の方が読者様への注意特記としてその役割の意味と意義が高く、そのメッセージにはリアリティがあり現実的な一種の「救済」になり得るのではないか
と考えることも出来ます。
それをシンプルに「センシティブ」というには、まるで「ゆとり世代」に行ったように社会人として何の装備、能力も持たせずに大人の社会へと放り出した「放任」に近いような気がするのです‥‥‥
それこそが、本当に恐ろしい「人怖」👻ではないでしょうか👻👻👻