• エッセイ・ノンフィクション

社会性とのつながり

1月26日

全く。。被害者というものは、心療内科や自助ミーティングで知る事すべてが
世の中に全部通るとでも思っているのだろうか?

私も私たちのような被害者の事を世の中に多く知ってもらいたいとは
思っていない訳ではないけれど、
最近になって思うのは、どの話にしてもこんな重たい話。。
いくら私たちはこうなんですああなんですって言ったところで
それが全部通用するとは限らない。。

何だか最近、社会認知を変えたいというのだって、
自分が変わらねば社会なんて変わってくれるはずが無いのだろうとさえ感じる。


被害者たちは何処へ向かおうとしているのか?
社会のハレモノになりたいのだろうか?

おそらく今回私に返信レビューを書いてきた「どこかの〇〇」というのだって
どこかの自助ミーティングに通った経験のある同じ被害者ではないだろうか?
と思う。。

書かれている内容が自助で良く言う内容ばかりで、
それはケースバイケースだろうという柔軟性を完璧に失ったまったくの思い込み。


そういえば「~〇〇すべきでない。。」という表現をつかってはらない。。という事。

自助ミーティングに通っているとよくそういわれた事を思い出した。。
そしてそのように表現しないように!というのに、被害者が自分の殻に閉じこもりすねたように表現するのが
○○すべきでない。。という言葉だった事も思い出した。。

もう一つ思い返せば、私自身が自助ミーティングにせっせと通っていた頃。。
ブログには○○すべきではないといった表現が多かった事も思い出した。。


今一度、あそこを卒業しておいてよかったと本当に思う。。
それは通ってはいけないというのではなく、通わせてもらった恩義もあるし、
有意義だった時期もある。。しかし、
常に人は変化する者だという事。。それを気づきにくいのも自助ミーティングという場だったりもする。
それは被害者としてといった狭い範疇ではなく、人としてと言うくくりで。。


例えば回復の程度。。これを優劣ではなくて、きっと段階があるのだと思う。。
社会に変わってくれというのではなく、
自助ミーティングの在り方こそ変わらないといけないのかもしれない。
個人のインナーチャイルドにしてもとことん子供っぽい人と
大人に近い人が学びが一緒というのは何とも難しい筈。。

例えば小学生と幼稚園児が一緒に学ぶ際、
年上が年下をを引っ張っていく事は出来ても
大学生が幼稚園児と学ぼうとするなら、それは土台無理な話で、
ほとんど先生と生徒の関係になってしまう。
まして見た目は大人同士の自助ミーティングなのだから、
そこに歪な上下関係が出来たり、ながいものにまかれたり。。

確か。。私が通っていたところは、被害者以前に偏りを感じる代表だった事も思いだした。
例えば、個人商店や、個人病院等、人間関係が家族関係と同一というのは、
中々社会関係とは言い難い場合が怏々としてあり、世の中すべてというのではなく、
比較的お山の大将的に陥りやすい。
例えばどんな底辺の仕事でも、そこには先輩後輩といった
れっきとした社会関係が存在する。

そして自助だって代表に対して精神科医の庇護を非常に感じる場で、
通えば通うほどに違和感を感じていた事も事実で元々その精神科医には
半年以上前にもう通院の必要は無し、と私はお墨付きをいただいていた事から、
自分の心の状態と当時の私の環境とを鑑みて、通院も自助の方も卒業して
新たな職を得てそのスキルアップを目指し、
社会の方で自分の心の歪さを矯正していく道を選んだのだった。

あれから、私の頭の中は介護職に対する日々の出来事。喜びや苦労が頭の中を占め、
自分の経験してきた事を断片的に思い出しては感謝する事が自然と多くなっていった。


気づけば〇〇すべき。。という表現が自然と消えていた。。

今回それを書き込まれてみて。。クスッと笑える気がした。。と同時に
被害者も変わらないと。。社会なんて変えられない。。と痛切に感じた。

社会が人を変え。人が束になって社会を変える。。
被害者たちよ!いづれは社会に飛び出さないと何も変わらない。。
その時、こんなことは傷つきます。そんなことは言わないでください。。
ばかりでは何も通用しないし、人と繋がる事は出来ない。。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する