近況ノートにお越しくださった皆さま
こんにちは、佐藤宇佳子です。
昨日、虹乃ノランさまの『オンネトーの森』のレビューを書いたところ、ふだんより交流のある亜咲加奈さまもレビューを投稿なさっていました。レビューでは書けなかったことをもう少し書いてみたかったこと、それにせっかくなので、亜咲加奈さまからもご意見うかがってみたかったので、自分のもやもやまとまらないものを近況ノートに吐き出してみることにしました。
最初にお断りしておきますが、以下は『オンネトーの森』をはじめ、いくつかの作品に対する私の「個人的な感想」です。どの小説も、圧倒的な力で読み手に迫って来る素晴らしい作品です。未読のかたは、ぜひお読みいただいて、味わっていただきたいと思います。
まずは、作品とレビューへのリンクを張っておきます。
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1.虹乃ノランさま『オンネトーの森』
https://kakuyomu.jp/works/16818093088457065057佐藤宇佳子のレビュー
『オンネトーの湖面のように』
https://kakuyomu.jp/works/16818093088457065057/reviews/16818093091374912114亜咲加奈さまのレビュー
『誰かに何かを残すなら』
https://kakuyomu.jp/works/16818093088457065057/reviews/168180930914194177532.小葉さま『消えない飛行機雲』
https://kakuyomu.jp/works/11773540548850420943.プラナリアさま『顕微鏡』
https://kakuyomu.jp/works/1177354054892444539* * * * * *
どうして小説にこんなに心を揺さぶられるのか。動揺させられるのか。
ドラマや映画を見るのが苦手だ。不用意に心の中に飛び込んできて屈服させられる、あの感覚がとても気持ち悪いのだ。いや、恐ろしいのだ。小説でも、ときおり、そのような「突き刺さる」ものに遭遇することがあり、動揺のあまり、最後まで読めなかったりする。
オンネトーと言う言葉の響きに惹かれ、かつて暮らした北海道への郷愁も手伝って、虹乃ノランさまのカクヨムコン10への参加作品、『オンネトーの森』を追いかけ始めた。これまで拝読したり、ちょっとのぞいたりした虹乃ノランさまの作品は、私にとって「恐ろしい」ものではなかった。少し風変わりな向きに私の心を揺さぶり、それで終わり。物語と私の心の波長が共鳴し合うことはなく、その振幅が耐えがたく増幅されることはなかった。だから警戒することなく、読み始めた。
語り手の顕花はひたすら自分の中に沈み込んでいくような女性だ。友人たちが育児に奮闘する三十代に彼女は病で生殖機能を失い、息をひそめるように生活している。その生は受難であり、死を迎えるまでひたすら耐え忍ばねばならない責務のように映った。
そんな彼女の前に現れた十六歳の少年セジ。中学生のように小さく、痩せっぽちの彼は、ひとりでアパートで暮らし、アルバイトを掛け持ちしながら専門学校に通っている。親から見放され自活を強制させられるという過酷な境遇にありながら、人懐っこいセジは、アパートの管理人や近所のおばちゃんたち、それにバイト先の店長や仲間たちから可愛がられている。
それでも、彼の生活は過酷だ。食事はバイト先で食べさせてもらうか、スナック菓子をおかずにするか。衣食住の食からして、それほど不安定な状況なのである。彼の生活はすべてがまったくもっての綱渡りだ。まだ社会経験が少なく、他人への警戒心が薄く、お金に困っている子供が落ちる穴はいくつも用意されているのだから。体中に刺青を入れ、いくつもピアスの穴を開け、髪を染めたセジも、実際にそのような穴にはまりかけている。
しかし、顕花の目を通じて語られるセジは、そんな自分の境遇を悲観したり、卑下したり、憤ったり、絶望したりすることはない。それどころか、自己を顧みるよりも顕花をいたわり、保護を必要とする動植物に手を差し伸べようとする。
このあたりまで読んで、とても辛くなってきた。顕花も三十代にして生殖機能を失い、さらに病と闘わねばならないという困難を負わされている。しかし、彼女は自分が不幸であることに自覚的だ。かたやセジは、どう考えても子供が陥るべきではない苦境をあっさりと受け入れ、辛いと感じる神経さえ麻痺しているように見える。それが苦しくてたまらない。
キャベツ太郎をオカズにご飯をたべること、性的なサービス用の雑誌のモデルを年齢を偽ってやっていること。それらを顕花に知られたセジに悪びれる様子はない。残酷なことに、彼の基盤は平均からはるかに歪んでしまっているのかと思わされた。
顕花に「俺と結婚しない?」と告げたこと、顕花が入っている湯船に飛び込んできたこと。これらも顕花を純粋に伴侶として愛したいというより、無意識に切望しつづける家族への愛が混同されているように思える。このままだと、この作品を読み続けるのは自分には無理かな、と感じた。
しかし、顕花には見せなかった両親への強烈な嫌悪を、セジは友梨奈には見せていた。庇護すべき子供を呪い続け、放り出した両親に対して、意識的に、無意識に拒絶反応を示していた。本来であれば痛ましいその描写が、ここでは救いに思えた。彼は辛いと思うべきことを辛いと思える精神状態をかろうじて保っていたのだと。
顕花の目に映るセジは、子供っぽく見えたり、年よりはるかに大人びて見えたり、諦めきっているようにも、ひたすら明るいようにも見える。顕花も友梨奈もそれ以外の人々も、本当のセジを見ているわけではないのだろう。他人を丸ごと理解することなんてできない。見えるのは限られた一面だけだし、その一面でさえ、自分のフィルターを通して心に届いてしまう。行ってしまえば、見たいように相手を見てしまうものだ。
最後まで私が自分なりの腑に落ちる解釈を見いだせなかったことがいくつかある。顕花が強くセジに引きつけられたのはなぜなのか、セジもまた顕花を望み続けるのはなぜなのかだ。欠けてしまったものを抱えながら生きねばならないふたり。このふたりが出会い、惹かれあったことは必然的なことだっだったのか、ふたりにとって救いだったのか、セジがオーちゃんを再生させたことはふたりにとっての福音だったのか、命の逞しさそのものである巨大なフキ畑でふたりが再会したことは顕花にとっても未来への希望につながることだったのか……。そんなことをいまだに考え続けている。
『オンネトーの森』について思うところを脈絡なく書き連ねてみたが、実は強烈に引き付けられながら、苦しくて最後まで読めなかった作品がカクヨムにふたつある。それが、冒頭に示した『消えない飛行機雲』と『顕微鏡』だ。どちらも人間の心理を鋭く追及し、弱い者たちのこころや、見過されがちな「悪意のない偏見」をたんねんに綴った名作だと思う。『オンネトーの森』をお読みになった方なら、きっと気になる作品となるだろう。ぜひ、お読みいただきたい。
長文失礼いたしました。最後にもう一度断っておきます。上記は佐藤の頭の中のもやもやを吐き出しただけの、個人的感想です。