こんばんは。
皆様、お変わりありませんか。
ここで、まず魂から一言。
「終わったー! 今年の夏休みも無事終わったー!」
失礼いたしました。
改めまして、こちらまで来て頂いたり、先の近況ノートにコメントを下さったり、ありがとうございます。
しかし、近況ノートには、頂戴したコメントに対する個別の返信機能って無いんですね。コメントを重ねる形でお返事を差し上げるのは、ちょっと不便だなと感じました。
さて、今日もそこはかとなく、何が私を『私』にしたかというお話を。
『シートン動物記』に始まり、要素は色々ありますが、やはり次に来るのは、トム・ゴドウィンの『宇宙の漂流者』だと思います。
初読は、やはり小学生の頃。市立図書館で偶々手に取ったのですが、これもまた運命だったのかなと思ったりします。
『家電話の最古の記憶は黒のダイヤル式』世代なので、SFといえば、ヒーローが悪い宇宙人をやっつける、昭和の戦隊ものやロボットアニメものの定番しか知りませんでした。
そんな小学生にしてみれば、敵の異星人国家によって不毛の惑星に棄てられた人々が、『一人を助けようとすれば大勢が死ぬ。大勢が助かる為には一人が死ななければならない』という理屈のもと、一章ごとに主人公が死んでいき、それでも命を繋ぎ、知識を繋ぎ、世代を繋ぎ、遂にはその異星人国家に反撃を開始する、という物語は、衝撃なんてものではなかったです。
何度繰り返し借りて読んだやらわかりません。今から思えば、それほど気に入ったものなら、購入して手元に置いておけばよかったのになあ。何故それに気付かなかったのか、小学生の私。
そうそう。トム・ゴドウィンといえば、『冷たい方程式』を忘れる訳にはいきません。これも、『一人を助けようとすれば~』の理屈は同じ、超弩級にシビアな話でした。
この理屈は、権力者が自分以外の他人に安易に犠牲を強要し、しかもそれを美化する為に使おうとすると、ただの妄言にしか聞こえませんが、物語世界の中で『これ以外に正解がない』状況が用意されていると、その現実において人間らしい選択とは――という登場人物たちの葛藤が、何より胸を打つ訳です。
ちなみに、拙作の真那世の皆さん、特に八手一族の行動原理は、上記の理屈とは逆になっております。アンチテーゼではなく、オマージュとしての逆理屈で、必死に世代を繋いできた彼らを描いてみたかったのですが、ちょっと闇と恨み節を強く描きすぎた所為か、上手くいっているとはいえないですね。ああ、才能が欲しい。
では、今日はこの辺で。