昼過ぎから初夏の青空を灰色に隠してしまった雨雲が、夕方になって泣き始め、大粒の雨が田舎町を濡らした。
(今日はもう店じまいにしちまうか)
田舎町唯一の喫茶店のマスターは、窓から外の雨模様を確認する。口髭を蓄えた顔を横に向けて、モダンな木目調の壁掛け時計を見やる。時計の針は十七時を刺そうとしていた。
ただでさえ客足の遠くなる時間に、雨の追い打ちだ。この店の数少ない常連客も早めに帰ってしまった。
マスターは最後の客が注文したホットコーヒーを片付ける。すっかりと冷めてしまったコーヒーは半分ほど残っている。世間話のお供に注文されたコーヒーは、必ずしも全て飲まれるわけではない。ただ、ごちそうさま美味しかったよと、自分にお礼の言葉を残して帰ってくれるのがせめてもの救いだろうかと、マスターは冷えきったコーヒーを処理して洗い物をするのが日常だと割り切るまでにどれくらいの月日が経っただろうか。バイトを雇わずに、ひとりでなんとか喫茶店を切り盛りし始めた頃が随分と懐かしく感じる。
マスターは、今日も冷えたコーヒーの残されたティーカップを片付け、洗い物を始めた。
その間に来店する新しいお客はひとりもいない。
それから、二十分と時は過ぎただろうか。マスターは暇を持て余しすぎたアクビを咬み殺しながらスポーツ新聞を折り畳むと、とりあえず十八時までは開けるつもりだった店を早々に閉る決断をした。
恐らく客がくる可能性は低い、たまには早く帰りゆっくりするのも悪くは無いだろう。
そう思った矢先。
―――カラン
と、ドアに取り付けてあるベルが短く鳴り、ひとりのお客が来店してきたことを告げた。
客が来たなら仕方がない、とりあえずの営業再開だとマスターは緩めかけたエプロンを結び直し店へと戻る「いらっしゃいませ」と、笑みを作り客へと顔を向ける。
来店した客を見た瞬間、マスターの目は大きく見開いた。
なぜだろう、その客は初めてみるはずなのに、胸を締めつけるように痛く苦しくなるのは、目を離せずジッと「彼女」を見つめていたい。
そんな不可思議な感情を覚えるのは、この女性がマスターが見惚れる程に綺麗な人だからだろうか。
見惚れる彼女の容姿、所々に色の抜けた銀色と黒の混じったいまにも床に届きそうな長い髪。化粧でも厚く塗っているのか、肌は陶器のように真白い。それでいて唇の色は鮮やかに真赤に染まっている。
身に着けた衣服は手袋に覆われた指先ロングスカートから覗くブーツまで黒に統一され、まるで葬式へと参列する喪服のようだ。
このミステリアスに統一された黒は、どこか儚げな表情をしたこの女性にはよく似合っていると、マスターは素直に感じた。
黒は真白な肌を唇の赤を、より際立たせてくれる。女性の黒の身姿はまるで精巧な人形のように美しさだ。
「……」
女性は物言わず、細めた瞳だけを動かし店内を眺める。惚けた顔のマスターへと静かに目を向けると、瞼まぶたをゆっくりと上げ開いたかと思うとトロリと眠気を誘うような垂れ気味な眼へと変化させ、柔らかな表情で薄く笑みを溢した。気品と色気の合わさる流す眼に見つめられる。そんな男の欲を擽るような表情を向けられると、彼女という存在に吸い込まれて埋もれていってしまいそうな錯覚を……。
「大丈夫でしょうか?」
女は涼やかに笛の音を奏でるような透明感のある声音でマスターに尋ねる。マスターは数秒と惚けた顔のまま、女の言う言葉の意味イントネーションを頭の中で反芻はんすうし、鏡に映るボゥと惚けた顔の自分を心配したではなく、店はまだ開いているかとたずねられたのだと理解した。
「ええ……えぇ、やっています、いますよ。どうぞどうぞ、いらっしゃいませ」
マスターは、気恥ずかしさを隠しながら改めて客を迎える挨拶をすると、目の前のカウンター席へと案内した。
(なぜ俺は、目の前の席を勧めたのだろう?)
この美女を間近で眺めていたいという単純な男の欲求だろうか、それとも、この苦しく胸を締め付ける感情だろうか、これは年甲斐の無い一目惚れをしたのだろうか。
女が一歩踏み出してカウンターへと向かう。不思議な事に銀と黒混じりの長い髪は揺れもず、床を鳴らすブーツの音もシンと静まる店内に響かず、外は雨が降っているはずなのに、水濡れたブーツの靴裏の跡も床に残らなかった。
ボゥと頭が痺れた熱にうかされたマスターはその事を特に気にする事はなかった。
「ご注文はお決まりになったら呼んでください。コーヒーや紅茶も美味しいですが、うちは軽食も結構いけますよ。特にこのトマトバジルのホットサンドなんてね」
マスターはカウンター席のメニュー表を女性の前に置くと、夕食に近い時間を考慮して、軽食も勧めてみた。トマトとバジルソースをたっぷりと使ったホットサンドはマスターの得意な軽食メニューだ。
女性はメニューを開かずに、静かな声で一品注文した。
「アイスミルク、スプーン一杯の、いえ、スプーン一杯半のお砂糖を混ぜた、アイスミルクをいただけますか?」
女性の上品な雰囲気から、コーヒーか紅茶を頼むものだと思ったが、以外にも「アイスミルク」を注文してきた。確かにメニュー表にはアイスミルクはあるが、いやに子供っぽいものを頼むものだ。しかし、メニュー表も開かずによくわかったものだと首を傾げるが、お客が注文するものを不思議がってもしょうがない。アイスミルクなぞどこの喫茶店にもあるメニューだろう。
マスターは、冷蔵庫から取り出した冷えた牛乳アイスミルクをグラスに注ぐと、言われた通りに一杯半の粉砂糖を混ぜて女性の前に置いた。口の化粧が取れてしまわないかとストローも添えたが、女性はグラスに直接口をつけてアイスミルクを飲み小さな吐息を漏らしながら、薄い笑みを浮かべた。不思議と唇の上にミルクのあとはついていなかった。
だが、確かにミルクを口つけて濡れたその唇は赤さが強調され瑞々しく照らされている。ついとマスターは顔を近づけてしまいそうになる程に。
「なにか?」
「い、いや、なにもっ」
マスターは女の声に我へと返る。眼の前に近づきつつあった女性の唇から慌てて顔を背け無意味にカウンターの隅を拭き、いいわけでもするように首を横に振った。幸いといってよいのか、女性はマスターが顔を近づけようとしたことに脅えも、立腹もした様子も無く、もう一口アイスミルクを口にして、また薄い笑みをこぼしている。ホッと胸を撫で下ろしながら、アイスミルクを一口飲むたびに薄く優しげな笑みを作るのが妙に気になり、女性に尋ねた。
「そのアイスミルクは、そんなに美味しいですか?」
「いいえ、口にする食べ物の味はよくわからなくて、ただ、このお砂糖の入ったアイスミルクは、懐かしい思い出に浸れるから」
口にする食べ物の味がよくわからない。女の言っている意味の方がマスターにはよくわからなかったが、どうやらこのアイスミルクは彼女にとって思い出の味らしい。
「はは、恋人とのですか?」
「ええ、そう、そうね。恋人の、好きなものだったかしら」
マスターがなんの気無しに滑らした言葉を女性は薄く微笑んで肯定した。
「ああ、ははは、なるほどなるほど、いやぁ……」
なぜこんなにショックを受けているのだろう、こんな美人さんならば恋人のひとりやふたりいてもおかしくは無いじゃないか、むしろ自然なものだろうが、マスターは顔も知らない彼女の恋人への嫉妬の炎が焦げくさく胸の内を燃やしている自分にイライラとしたものを感じた。
(俺はどうしちまったんだ。ホントに一目惚れだってのか。バカ野郎、この人は今日あったばかりのお客さんだぞ?)
マスターはどうにも制御しきれない、身勝手な自分に頭がどうにかなりそうだった。このお客さんとの二人きりな空間に耐えられそうにはなく、マスターは店内にBGMをかけることにした。自分趣味な音楽なら、心を紛らわせる事もできるだろう。
マスターが店内BGMを着けると、男性ボーカルの優しくゆっくりとしたメロディが流れる。
「……〜〜♪」
「えっ」
女性が流した曲に反応をしめした事にマスターは驚いた。あまりメジャーなナンバーではなく、若い女性にはわからないものだと思ったからだ。
マスターが流したのは、八十年代のハードロックバンドのバラード曲だ。過激な歌詞と奇抜な衣装、話術を含めたパフォーマンス、卓越された音楽センスとボーカルの美声は世代を越えて信者ファンを虜にしたロックバンド。マスターも、直撃世代では無いが、一度曲を聴いてから信者になった。
このバラード曲は、ハードロックバンドには珍しい優しく包み込むような一曲だ。
「懐かしい……本当に……」
女性は曲に聴き入ろうと目を瞑り、アイスミルクを口にして、また静かに笑みを溢した。
瞑った瞼の裏に映るのは「彼」との、思い出。