学園モノの能力バトルってだいたい生徒同士で戦ってたりするけど、本気でやり合ったら死ぬ危険性高いよなって随分前から思ってた。
本気でやっているという体じゃないと盛り上がらないけど、本気でやったら普通に考えて大怪我か万が一があれば死ぬ。異能系の学園モノの学校って軍人養成機関としての性質が強いと思うんだよね。
スポーツにルールはあっても殺し合いにルールなんてない。殺すか殺されるか、たったそれだけ。
まぁ、軍学校では人の殺し方は教えても実際に殺すことなんてしないと思う。生徒一人一人が将来の戦力なのに戦わせてその数を減らすなんて馬鹿馬鹿しい。
せいぜい人形を的にした銃撃の訓練とかだろう。
まぁ、ただ訓練するだけなら物語を書く意味はない。
そんなのつまらないから。
万が一死んでも結界の力で蘇るよみたいなのが一番嫌いだ。今書いてるオールドエッジっていうのは結界で魔法の威力が軽減されるので死にはしないみたいな設定だッタと思うけど、自分で考えたくせにばかみたいな設定だなと思ってしまう。
異能学園では試合で人が死んではいけないし、試合は全力でやらなければならないみたいなのは物語の違和感を強くしている。
学園モノの学園内で行われる試合形式のバトルは訓練という要素を満たしながら、何らかの方法で手加減をし、そうでありながら本気で戦うという無茶な要件を満たさなければならない。
授業内での軽い試合なら先に3回攻撃を受けたほうがまけであるというような、何かしらのルールを加えても良いと思うが、よくある設定のトーナメントとか、ランキング試合は気絶したら負けとか、降参しなければ負けにならないとか、ルールの数は少なく、内容は単純でなければならない。
人と人が全力でぶつかりあえば死ぬことがあるのは現実では当たり前のことだ。お互いを攻撃し合うのなら、命を奪う可能性はより高いものになる。
つまり、全力でやってるのに死なないというのがおかしいということ。
ドラゴンボールで生き返るとか言ってある某漫画は死者を生き返らせることができるという滅茶苦茶な設定で死闘を強引に描ききったが、しかし確かに死んでも大丈夫だという安心感はあったかもしれない。
結局のところ、こういうことなのかもしれない。
人が死ぬ物語は面白い。
極端なことを言うよであればこうした結論にたどり着いてしまう。
だが、案外間違ってもないような気がするのだ。
絶対に人が死なない物語ってのはなんとなく緊張感に掛けてしまうのは気の所為ではないだろうし、ワンピースだって昔は巨大爆弾抱えてドカンしたって生きてたし、それでもきっと面白かったのだろうが(私がどう思っているのかは別として)、やはり読者の違和感は残ったのではないだろうか。
そんなワンピースも最近では割と簡単に人が死ぬ。
私は下手に生きてしまうよりそっちの方が良いなって思ってしまう。
簡単に人を殺すのもどうかしていると思うが、死ななすぎるのはただのご都合主義でしかない。
だから、死なせないための設定をいくつも設けるのははしたないと思う。
そんなに人の死が見たいならデスゲームでも書くのが一番だが、露骨すぎても良くないのだ。
人はそばには常に死が控えていて、次の瞬間にも死ぬかもしれないし、そうでなくとも老衰やら病気でいずれはそうなる。
どう生きようがその末路は死のみだ。
決して超えることのない絶対の壁。それが死で、いつの時代も死と向き合ったうえで己はどのように生きるのか、それが人類共通の重要なテーマだった。
物語とはいえ人同士を戦わせるのであれば、死というのは避けることはできないテーマなのだ。
物語から死を奪えば、物語は物語としての死を迎えると言っても良い。
現実なら死に至るリスクを極力減らすのは正しい。
しかし、物語としては間違っているのだ。
物語には現実にはあり得ないが、そうであって欲しいという願望が詰め込まれているべきだ。
もしある出来事について、それを失敗したら死ぬ可能性があるというとき、死を恐れて何もしないというのは十分にありえることだ。
しかし、物語のキャラクターは違うのだ。
たとえ自らの道程の末に死が臨むのだとしても、自らの思いを曲げずに、自由を貫く。いつか死ぬのに死を恐れてどうするというのかという命題は常に我々の胸中の片隅で燻り続ける問題だが、そのように死を恐れると同時に、必ず我々の心のどこかには死を知りながらも己の思いを貫きたいという想いもまた存在する。
それがあっても実際にはその通りには出来ないからこそ、人はその行為に憧れ、尊さすら覚える。
それを奪った物語に私はどこか陳腐さを感じるのである。
だから、私は極力死という要素を意識した設定を考え出したいと思っている。