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駄文

 毎年11月、地元の工芸展に作品を出品します。
市民展くらいの小さな公募展です。入選しようが入賞しようがさして生活、変わりありません。
 ではなぜ出品料を支払い、回収できない材料費を出して毎年応募するのかと言えば、ひとつは、日頃出来ないような漆芸技法を試す事が出来るからです。美大、芸大など出ておりません。圧倒的に経験や知識が不足しております。また普段の仕事では決まった塗りしかしませんので、自分でそういった時間を作らない限り経験は増えません。
 もうひとつ、自分の作ったものを不特定多数、人の目に触れさせるためです。モノづくりは人の目に触れさせないと成長しません。何が良かったのか悪かったのか、何が人の心に触れるのか触れないのか。自分の表現方法は、素材の選定は、用いた技法は適切だったのかそうでなかったのか。そう言ったものを客観的に判断しなければ成長しませんし、人の目に触れさせる事はとても成長を促進させます。
 そう言った意味で、ここで小説を公開している方々は、その作品の出来不出来に関わらず、本当に素晴らしいと尊敬しております。自分の内面をさらけ出す行為は、とても勇気のいることと思います。

 前置きが長くなりました。さて、工芸展に出すとなりますと、普段の工業的モノづくりから、美術的モノづくりにシフトしなければなりません。工業的モノづくりでは、主役はあくまで「お客様」と「もの」。徹底して自分を殺して制作します。一転し、美術的モノづくりでは徹底して自分の感性を開いていかなければなりません。
 審査基準として、「世界観が構築できているか」「その世界観を表現する方法が過不足なく適切か」「表現に用いた技法、素材の選定が適切か」などあります。あと大きければ大きい方がいいかと言われます。それはさておき。

 世界観と言う言葉をずっと誤解しており、何か頭の中の世界の設定とかストーリーの様に思っておりました。実際は、どういう風に世界を観ているか、その世界にどういった存在として自分を置いているか、そんな感じに今は解釈しています。
 11月の工芸展に作品を出すため、世界観の確認のため感受性を全開にする作業を毎年4月頃から始めます。小説、漫画、映画、絵画、音楽など読んだり聴いたり見たりして、笑ったり泣いたり怒ったりと、心をよく動かす準備体操をします。
 次に日常の何気ない風景に目を配ります。天候、季節、虫、植物、音などなど、目や耳に入るもの何もかもをです。
 緑に映えるセイタカアワダチソウの黄色の花の集まりに、濃茶にレモン色、白の斑の蝶々がパタパタと飛んで来た今日は昨日までの寒さとはうってかわって暖かい。それを軒下に置いた椅子に座って見ています。椅子の裏には座面を固定するネジ穴があって、春から夏にかけて、小さな蜂がせっせと食べものを持って通います。ネジ穴ひとつひとつに幼虫がいて、そこで冬を越え、春には成虫になって自分が育った穴に餌を持って帰って来るのかも知れません。穴の真下には、少々の土くれと、たまに幼虫が粗相した餌の芋虫などが落ちています。
 ここは街道から奥に入った森の中、木々では鳥が騒いでいます。鶯はすっかり静かになりました。おなじみホーホケキョは縄張りの主張。ケキョケキョ言うのはその縄張りに外敵が侵入した警戒音。どうやら鶯の縄張りに入ってしまったようです。
 そんな事を思い出し立ち上がると、目線の先に大きな蜘蛛の巣。先週末くらいから、お腹のぷっくりした立派な女郎クモが巣を張ったのに目をつけていました。まるまる太ったお腹は、つや消しの黒地に、黄色と白の縞々模様。赤い斑点がワンポイントです。大きな蜘蛛の巣にはいくつか、毛玉みたいなものがぶら下がっています。食べ終わった残飯でしょうか、これから食べるお弁当でしょうか。パタパタと足掻いているのは名前も知らない、見分けもつかないクリーム色の蛾です。女郎クモはまだ気づいていません。気づいているけどもっと弱るのを待っているのかも知れません。その蛾を気紛れに助けます。または助けようかと考えます。
 助ければ、蛾の命が救われます。代わりに女郎クモが餓死するかも知れません。助けた蛾も、弱り切ってすぐに死ぬかも知れません。そうだとしても、地面に落ちた蛾は、冬を前に食べものを蓄えたい蟻の餌になるかも知れません。毒があって、蟻の巣は全滅するかも知れません。分かりません。助けなければ蛾は毛玉みたいに糸でくるまれ、残飯かお弁当になります。女郎クモはお腹が満たされ冬を越えます。どのみちもう少ししたら寒くて死ぬかも知れません。分かりません。助けるか助けないかは気紛れです。どちらにしても自己満足と後悔が少しの間残るのです。

 そんな感じに日常の色々に心を動かしますと、ものを作った時に感性が働きます。角の丸みとか、取り付けたパーツの角度とか、色の配置とか、素材の選び方だとか、そういったものに。今年の「こういう風に世界を観ています」が、そういったものを教えてくれます。

 ただ、こういう生活はとても疲れます。歩いていても靴の下の蟻に気づいてしまうような暮らしです。雨上がり、田んぼから這い出て道を横切るカエルに謝りながら踏んで行く、いや遠回りしても道を変えるような。そういった暮らしが半年以上続き、工芸展が終わると燃え尽き、感受性は閉じられます。

 この話のオチとしては、工芸展が終わる丁度そのタイミングで始まるカクヨムコンテスト。そこに出せるような作品は、まあ、たぶん書けないだろうなあ、と笑。

 そんな小春日和と言うには少し早い、秋晴れの一服タイムの徒然です。では、また。

2件のコメント

  • 世界をそのように見ている、まではいいとして、それを言語化するのにはなかなかの労苦があるのではないか、とw
    意識的に開くのか、意識的に閉じるのか、ともあれ年中これだとなんか🤯になりそうですw

    椅子の裏のネジ穴だけがどうも感覚的につかめなくて、これは現実のデッサン? それともハメられてる?(w)みたいな気分になったんですが、とても面白かったですw
    こっちもさいかわエッセイに出してみたら、相当上位に入りそうなんだけどなあ、とか思いました。

    あとこれを「駄文」扱いにすることに憤怒。ですw
    やめてくれ、ほんとの駄文書いてる自分が愛おしくなる!(←?)
  • 出ました、ダックス憤怒!
    ネジ穴、アレです、椅子の足に直径1cm深さ2から3cmの穴が空いてて、下からビス打って座面を固定する穴です。毎年そこに来る蜂と顔馴染で。

    感受性に関しては無理やりこじ開けてる感じですよね。開きっぱなしだと生きづらいじゃないですか笑
    工芸だと言語化しないままでもセンスというか「感じ」でもいいんですけど、小説だとそもそも言語ですし必要でしょうか。
    とかいいながら、自動販売機なんかはもろ「感じ」だけで書きました笑
    最初の方、ボタン押す時の「背伸びして」とか、あ、そう書いた方がいいって「感じ」で。まだ余計な知識も少なかったですしね。
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