• 創作論・評論
  • エッセイ・ノンフィクション

忍ばせたナイフ

しばらく仕事で忙しいので、書くのは当然、読むのも止まってる。

一応、次に書くものの構想だけはメモっているのだが、一人称で書くか三人称で書くかも決めれてない。

処女作(迷宮を出る)を書いた時は、選択肢がなかった。迷宮を出るの主人公は可視光が見えない。本人の特殊な見え方を描くのに一人称にするのが自然だったし、そもそも当時の俺に三人称を扱えたかも怪しかった。

加えて一種の勘違いもの的な雰囲気も主人公に持たせたかった。内面でめちゃくちゃ影キャが考えてる描写をするのに一人称にする必要があった。

10万字程書き溜めてからのちに改稿されたプロローグだけは、主人公の見た目を明確にするのに一人称では無理があるので三人称になった。なんせ、主人公は見えないので自分の一般的な見え方を知らないのだ。

美形主人公や人外主人公ものは特別な理由がない限り早期に主人公の見た目がはっきりした方が嬉しいと俺は思っている。田中芳樹だって実質の冒頭である「星を見ておいでですか」の直後に女性向け恋愛ものにも負けない具合でラインハルトの容姿について長文で語っている。賛否あると思うが、あれがなかったらあれほどキャラ人気なかったと思うんよね。

以降は一部の第三者視点のエピソードを除いて見えない主人公の一人称なので、一般的な可視光の視覚による情景描写もできない。これはものすごい制限で、このせいで他者の表情や所作もストレートに書くことができなくて、殆ど会話劇のようになってしまったのだが、この問題も十万字書くまで気づかなかった。

完全に無知で無謀ゆえにやらかしたとしかいいようがない。多少でも小説について知っていたら、こんな制限がある設定で処女作を書こうなんてするわけがない。

次に書いた毛玉ゴーレムが、三人称で情景描写てんこもりで内面描写を可能な限りしない方向性になったのは、処女作でかけられてた制限のぶり返しという感じもする。

処女作は一応一章で話はまとまってるのだが、惰性で描き始めた二章の途中で毛玉方を書き出して、そこでやっと処女作にかけられてた視覚的な多大な制限にはっきりと気づいた。気づく前から制限のせいでとにかく書くのが難しくて筆が止まってたので……今でも未完のまま放置になってしまっている。

で、今。

書こうと思えば一人称でも三人称でもいけるし。三人称も毛玉ゴーレムみたいな内面を極力書かない語り部の個性を感じさせないタイプもいけるし、逆に語り部に内面も語らせて読み手に歴史の傍観者的な感触を与えたり、あるいは主人公にもっと近い位置に語り部を重ねてもいい。

多分どのタイプでも下手なりに書こうと思えば書けて、そもそもの筆力が低い故に、どうかこうが下手なのは変わらないはずだ。

書けるようになったというか、そもそも当初はそんな概念もなかったから悩まずに処女作をあのスタイルで書いただけだ。

絵に例えるなら、今まで全部一緒に見えてたイラストレーターの絵が「こういう絵柄もああいう絵柄もあるんだなー」と気づいたので、ちょっと見たアニメの絵柄に寄せて書いてみようとか、するようなもので。画力自体は変わってないのだ。

つまり、下手なくせに選べる知恵だけつけてしまっている。ここで「俺はこの絵柄が好きだから、このイラストレーターの絵を徹底的に模写しよう!」とかある人は強い。それは(少なくとも絵では)初期のうちに急速に画力を伸ばす近道で、経験的にもそうだし、好きなイラストレーターを見つけて模写しろってのは多くのプロも薦めてる。

なんだけど、小説に関して今の俺の状況を言えば、絵柄の差異が多少わかるようになったのに、好きなスタイルがわかるほどには目ができてない。

これはある意味最悪で、非常に事故りやすい状態だと思う。常識で考えたら有り得ない失敗もしそうだ。何も考えないでスーツ着てたら安牌なのに、下手に難しいファッションを知ってしまったばかりに会社にうっかりそれを着ていくみたいな。

逆にそれを恐れて「冒頭ポエムって着て行っていいのかな」と悩むみたいな。処女作の時には書くだけでいっぱいいっぱいで、常識や他人の目さえ気にかける余裕がなかったのだが、今は下手にその余裕があるので出来栄えや見栄えを気にしてしまいかねない。

見栄えを気にしたところで筆力は変わらないし、面白い物語を作れるかにはほとんど関係ないので、書けるように書くしかないから、これは精神的な負荷と無駄な迷いでしかない。多分。

選べるからこその悩みがあるように錯覚したのも頂にいる者からしたら、武芸者の動画を見てその通りに動ける気になった素人みたいな。そういうレベルなんだろうなと思う。ただ、その知るという過程は上達には必要な通過点なはずだ。経験的に。だから「やめてしまえ」とか言われる筋合いはない。

俺はアウトプットしていないと死ぬというタイプの創作型人間ではない。
絵を描くのも「特に料理に拘りはないが、料理スキルがあって自炊できると生活が捗るから料理する」みたいな感じで、絵で人を殴れると時に人生が捗るので絵を鍛錬しただけだ。

男というのは、滅多に使わないナイフを手入れして忍ばせておくのが好きな生き物なんだ。いや、これは女も好きかもしれない。

つまるところ、小説を書くというのも新しいナイフなんだろう。
いつかこの刃がそれなりに鋭くなったら、あたりそこらの人間を切り刻んでみたい。

表現というのは、人を切り刻むことが社会的に許されている暴力手段だし。

カクヨムやなろうというのは、あるいは書店というのは、無数の人間が研いだ様々なナイフが並んでいて、読者というのはそれに切り刻まれに来る生き物なんだよなぁ。

早く仕事を落ち着けて、ナイフを研ぐ作業に戻りたい。そう思う。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する