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なにかのアイデア(いつもの病気とも)


「ヘテロゲニア リンギスティコ ~異種族言語学入門~」があまりにも良すぎました。

「ヘテロゲニア リンギスティコ ~異種族言語学入門~」は新人言語学者の主人公・ハカバが怪我をした教授に代わって魔界へ行き、モンスターとのコミュニケーション調査を行う言語研究をテーマにしたコメディです。

獣人の言語は人の喉では表現が難しく、主人公が一生懸命話しても赤ちゃん言葉のようになってしまったり、人間の言葉に対応語句がないものは鳴き声にしか聞こえなかったりするため、ハカバは本当に通じているのか、不安を感じながらも、それ以上の興味でもって、獣人たちの文化に接していきます。

そして話が進むごとに、言葉が発せない種族は? 手がない種族は? そもそも個体の概念がない種族は? といった、コミュニケーションのみならず、生命が認識する「世界」という、かなり深い部分のテーマまで探求が進んでいきます。

1巻ではガイド役の女の子と旅をしながら、スライム、リザードマン、クラーケン、ハーピーなどさまざまなモンスターと接触していきます。同作はKADOKAWAのWebマンガサイト・ヤングエースUPで連載中です。(ここまでダイマ)


「ヘテロゲニア リンギスティコ」で行われているコミュニケーションで、あるアイデアが私の中で生まれました。

まず、構造化の批判とは中央であると同時に独立を可能とする因果原理を持つあらゆるものに対する批判であります。

ある構造を見てそれに中心があるとする。作者の意図のある作品をみたとして、それ自体の構造を解釈し、そのなかで作者の意図を再帰するにはどうすれば良いか?

コミュニケーションも構造のひとつです。そこに使われるのは言語という構造です。

言語はソシュールが考えるような区別の為に完全に機能するものなのでしょうか、それがもし違うとしたら?

これが最初のアイデアです。

つまり概念と世界と記号で表現される世界は、それらが安定した関係として成立する。そう理解される記号体型ではないのではということです。

実際、『ヘテロゲニア リンギスティコ』において世界とは、言語が何らかの形で思考を表現する手段として理解されるような世界ではありません。身体性が異なる存在について考慮してないからです。

脱構築(デコンストラクション)は記号表現と記号内容の区別に疑問を投げかけるのと同時に、言語と思考の区別にも疑問を投げかけるので、完全にソシュール的ではありません。ですが、デリダが言うようにソシュール的語彙なしでは成り立たないのも真実です。

ソシュールの考えは区別に基づいています。それは私達のうちにあるもの、これは感情や意志ではなく、より本質な感情を押すものについてですが、その本質的なものは声に出すことができ、声に出すべきものであるという考えです。

したがって、記号が思考の表現に付いて語る方法であるとソシュールが考える場合、彼がその表現を聴覚に依存する音像と呼んでいることに注目してください。

デリダによれば、ソシュールと彼の属する伝統が語る言語は文字、表記よりも音に特権を与えているようです。視覚的な映像、あるいは点字や墨字に代表される触れる文字についてもそうです。これらには伝達する機能があるのもかかわらず、です。

デリダはこれを形而上学の歴史全体における、隠れた偏見であると主張しています。なぜ、言語を話し言葉や音声として考える必要があるのでしょうか。

ロゴス、はじめに言葉があったという言葉について考えてみましょう。

ロゴスとは、単にギリシャ語の「論理」だけではなく、無限の理性、真理、学問などを意味し、また「言われたこと」「話し言葉」なども指します。
デリダはこのような意味でのロゴスが形而上学の歴史、プラトン、ルソー、ヘーゲル、フッサール、ハイデッガーなどの哲学においてのみならず、ソシュール、レビ・ストロース、ラカンなどの構造主義的な学問においても支配的な役割をもっていたことを指摘し、その脱構築を目指しました。

さて、プラトンは『パイロドス』においてソクラテスに書物に対しての批判と取れるストーリーを語らせています。そしてこの物語はデリダに「プラトンのマルケマイアー」を書かせることになりました。

ここでデリダは、コーラという語を取り上げます。このコーラという語は「痕跡」や「間隔化」などのデリダ的な概念と密接に結びついていました。コーラとは、イデア界と我々が存在する世界の中間に存在するもので、イデアと現象をとりなします。コーラはさまざまな形相が書き込まれる受容者であるが、それ自身はけっして現前(「今」前にあるということ。知覚する。さて、過去は存在するのか?)しません。

それはあらゆるものを受け入れながら、白紙のままであり続ける。このように母でありながら永遠の処女であるような場に、デリダは「根源的な書き込みのアポリア(そうであり、そうでない難題)」を見ていました。世界の起源は痕跡である。それはけっして現前しなかった出来事の痕跡であり、みずからを抹消しながら働くような痕跡の痕跡なのだ、と。

現前と不在の二者択一では説明できない痕跡の場、起源という点を内側から分割し、線状的な一定に流れるはずの時間に現れる、時間の錯誤。
その間の場をデリダは「間隔化」と呼んでいました。コーラとは、間隔化におけるこうした時間の錯誤そのものとして、現象と文字の刻印のための場を与えるそうです。

何故私は声を、意識や意識の中に正確に絶対的に存在する、完全に存在する一種の同時性として考えるのか。

私が理解している言語の起源はどこにあるのでしょうか。声の何が特別なのか。何故私以外の人たちは、私が書いたことに対して批判するのか。(もちろん、違うからです)

書くことも音声と何ら代わりありません。
伝えるための道具として、文字と文字言葉の間に区別を設けたいなら区別する必要がある。音声は時間に合わせて組み合わせて表現されます。

時間とは実際には存在せず状態の変化を記録したものです。なぜ言語には時間があるのか?

「私は私である」と言った時の私は、厳密に言えば時間差があります。
ここで発言したかったのは音声に先立つ私であるはずです。

ここで仮説です。

すなわち、言語とは身体性に基づいた認知、その目的を持つ主体、意識をもつ主体(ここでは、あえて人間とは書きません)を通した、世界の状態の変化の一致とその再現を目指したものではないでしょうか?

そしてこれは「!!」>「原・エリクチュール(単語と世界の結びつけ段階)」>「パロール(話し言葉=意識)」「エリクチュール(書き言葉=記録)」

つまり思考や構造の前段階、非言語化されたすべての源。
私たちの脳の奥を押す言葉や構造に辿り着く前の「!!」。これを含めて再現することが、エリクチュール、この世界に残ることができる、書き言葉がなすべきことだということです。

なんでこんな事を言いだしたかと言うと、そのプロット、ほんとにダメ?

ストーリーの面白さって「!!」にもあるんじゃない? これに対して再現性のあるプロセスが必要な気がするということ。

明らかに文章、展開としてはダメだけど、何か面白そうな気がするモノって、この「!!」の部分が共感できる面白いものになっている。

とかなんとか言うことです。


以上です。

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