今日は立春。
立春になると、必ず思い出す人がいます。
宮内卿の君。
鎌倉時代初頭、彗星の如く現れ、1200~1204年後鳥羽上皇の歌壇で活躍した天才少女歌人です。
1201年、二十一歳の後鳥羽上皇は史上最大の歌合せ「千五百番歌合せ」開会の御言葉で
「宮内卿はまだ十五歳。
大御所が名を連ね歴史に残るこの度の歌合せには、まだ早過ぎるとの声も少なくなかったが、私の一存で参加を決めた。
宮内卿よ、かまへてまろがおもておこすばかりにつこうまつれ(心して、我が面目を躍如する様に務めよ)。」
と高らかにおっしゃいました。
十五歳の宮内卿は感極まり、頬を紅潮させ涙ぐみながらその御言葉を聞きました。
その千五百番歌合せで、宮内卿は後鳥羽上皇の御心に応える優れた歌を多数詠みましたが、中でも人々が感嘆したのは
「薄く濃き 野辺の緑の若草に 跡まで見ゆる雪のむら消え
(野辺の若草の緑の濃淡から、雪が早く、或いは遅く消えたところが分ることよ)」
この歌によって彼女は「若草の宮内卿」と呼ばれる様になりました。
その後、宮内卿は和歌の修業に専心するあまり病を得て、二十一歳の若さで還らぬ人となったのです。
千五百番歌合せから20年後、1221年後鳥羽院は鎌倉幕府に対して挙兵し、敗れて隠岐に流されました。
隠岐で後鳥羽院は「時代不同歌合せ」を編纂。
古今集以降の無数の歌人の中から優れた歌人百人を選ぶ企画で、後鳥羽院は宮内卿も選びました。
そして、歌合せの対戦形式で、内省的な和泉式部の歌に対して、冴え冴えとした透明感みなぎる宮内卿の歌を選んだ後鳥羽院には、宮内卿の歌を誰よりも理解し評価しているのは自分だ、という自負が感じられると言われます。
宮内卿の歌
「花さそふ比良の山風吹きにけり 漕ぎ行く舟の跡見ゆるまで
(比良の山風が吹いて桜が一斉に水面に散り敷き、舟が漕いで行く跡が見えることよ)」
1207年、おそらく宮内卿が亡くなった頃、後鳥羽院は
「み吉野の高嶺の桜散りにけり 嵐も白き春の曙
(吉野山の桜は全て散ってしまった様だ。 早朝、まだほの暗いうちに吹いた風は花びらで白い嵐の様であった)」
という歌を詠みました。
この歌には、先の宮内卿の歌の影響が私には感じられます。
そして、宮内卿を失った悲しみも・・・私は感じます。
後鳥羽院は、死ぬまで宮内卿を忘れなかった。
しかし、その思いを胸に秘め、終生 誰にも、宮内卿にも語らなかった。
十七歳の宮内卿が立春の日に詠んだ歌
「かきくらしなほふるさとの雪のうちに 跡こそ見えね春は来にけり
(古都は雪雲が暗く空を覆い、なおも雪が降り続けているが、目には見えないけれど春が確実に忍び寄って来ている)」