こんばんは、いい週末ですね…台風の地域の方、大丈夫かな?週末だし、今夜は両親とゆっくりお酒でも飲もうと思います。本当は間食と飲酒は日曜日だけと決めてるけど、こんな秋の夜は飲みたい気分。因みに土曜日、我が家はNHKのFMでラジオドラマを聴いてます。22時からで、たまに結構有名な声優さんが出演されてますね。ロボットモノのラジオドラマも以前ありましたし、SFや現代ファンタジーも…興味がある方は是非♪
さて、今日はちょっと珍しく暑苦しい話を。
以前から提唱している『創作物には貴賎や良し悪しが基本的に存在しない』という話について、少し語ろうと思います。
世の中には勿論、名作と呼ばれる素晴らしい作品が数多く存在します。一方で、そんな名作の影に紛れて闇に消える、いわゆる駄作のレッテルを貼られた作品も。この両者の差は何でしょうか?この差こそが、貴賎や良し悪しに他ならないのでは?…そうお思いの方もいると思います。なので、まず順を追って説明させてくださいね。
創作物に触れた人間は、感動します。
心が動かされるんです。
美しい!綺麗だ!格好いい!面白い!酷い!おぞましい!怖い!…様々な形で心が揺れ動き、感動も多種多様な形で表現されると思います。逆に、何も心が動かなかった作品というのも、皆様の経験の中で沢山あったんじゃないでしょうか。かく言う自分も、見るもの全てを「いい!最高!大好き!」とは言えません。そしてそれは普通のことで、良かった悪かったを公言することも自由、許されるべき表現だと思っています。
自分が好意を表明した作品は、単純に好きだからですね。
ただ、それらは全て『主観』から生み出される価値観です。
当たり前のことですが、良いと感じた、悪いと感じた感動はあなただけのものです。
あなたと全く違う評価に辿りつく人が無数に存在します。同じように、あなたと全く同じ感動を持つ人も無数にいるでしょう。ただ、突き詰めていくと『主観』を基準にしている限り『作品とあなたは1対1』なのです。共感してくれた他者もまた、あなたを介さぬ1対1の構造の中で主観的に好き嫌いを得ているということです。
では、『客観』を軸にすれば絶対的な基準になるでしょうか?
結論から申しますと、『客観』で語られるものは創作物とは言えません。それは工業製品であり、機能を前提として作られた道具にほかならないからです。創作物とは常に、触れたものの『主観』と対峙する以上の機能を持たぬものなのです。勿論、使いやすい道具や優れた道具には機能美というものが存在します。しかしそれは、ニーズに対するアンサーとして優れているということで、創作物の持つ意味とはまるで違うものです。
勿論、自分も美しい道具は好きですし、スマートな製品には魅力を感じますが。
それでは、『技術論』というものはどうでしょう?
絵であれ小説であれ、技術力が高いか低いかは決まっています。勉強や修練を積んだ人間が見れば、作品の技術的な上下ははっきりと見て取れます。しかし、残念ながら高等な技術で創作された作品が、必ずしも万人の主観に響くわけではありません。そこが、それこそが創作物の本質…触れた者の数だけ価値が生ずるものを『芸術』と呼びます。勿論、権威のあるコンテストやコンクールでは、技術面での評価もクリアして初めて、創作物としての本質を評価してもらえるのは言うまでもありません。
しかし、世の中には『下手だけどイイ』『上手いけどイマイチ』と感じる作品が無数にあります。つまり、誰の『主観』も技術論は良し悪しを担保してくれない…技術を追求するだけが創作の方法論ではないということです。
ヴァン・ゴッホという画家をご存知でしょうか?
彼が生前に売れた絵は、一枚しかありません。
しかし、向日葵を始めとする氏の作品は、今では高額で取引される美術品です。
ヴァン・ゴッホについて少しご紹介しましょう。
彼は実は、当時の美術大学、それに準ずる教育機関での専門教育を全く受けていません。つまり、技術的には素人だったのです。そのこともあって、画家仲間のゴーギャン等には半ば軽蔑されていたという解釈も存在します。誰もが彼を画家と認めていなかった、そう論じる研究者は少なくありません。
当然のように、彼の絵は売れません。
素人が描いた絵ですから、当然とも思えます。
それでも彼は、寝食を惜しんで絵を描きました。仕事はありません、収入もないんです。でも、描いた…素人だから、既存の画家達が参考にする時代のトレンドも知りません。ゴッホの絵で、黄色が印象的ないくつかの作品があるのをご存知でしょうか?実は、あの時代に黄色の絵の具を使ったのはゴッホだけです。あれだけの量の黄色をキャンパスの上で大量に使ったのは、当時の常識から見れば『いかにも素人な発想』だったことでしょう。
ゴッホは精神的な病に苛まれながらも、画家としての命を燃やしました。アトリエに画材、そして食事から生活必需品まで、全て弟のテオがお金を出していました。テオは妻に嫌がられながらも、愛する兄を金銭面で支え続けたのです。兄を信じる、兄には才能がある…兄の絵はいつか売れる!しかし、ゴッホの絵が売れ始めたのは、ゴッホが死んだあとでした。
余談ですが、テオは発狂してしまったそうです。
何故兄さんが生きてるうちに買ってくれなかったんだ!と。
生前は見向きもしなかった画商が、大枚を叩く姿に精神が耐えられなかったのでしょう。
どうでしょう、技術が創作物の良し悪しを担保する絶対基準でないという気持ちが、少しでも伝わっていれば嬉しいです。勿論、ゴッホは天才だもん!という結論もいいでしょう。同時に、一定の評価を得るために技術を高めることは素晴らしい取り組みです。しかし、小説を文章作法や三点リーダーの遣い方、文体や表現力と言った文章力だけで語っても、良し悪しというものは生まれないのです。
誰かが『俺は!私は!好きだ!』で、その個人の中でしか良し悪しは生まれません。
そして、だからこそ名も知らぬ一人のためにでも、創作家は頑張れる時があります。
さて、最後に創作物を唯一、駄作と良作に分ける方法があります。
それはズバリ『価格をつけて売ること』です。
世界的な金本位制度を中心とした、各国家の保証する通貨を介した商品としてのみ、創作物は絶対的な評価で『良い』『悪い』を語ることができます。
ちょっと一瞬、いやーな話だと思いませんでしたか?
嫌悪や忌避の感情があるのは当然で、むしろ健全と言えるでしょう。
この世には駄作とレッテルを貼られながらも、あなたの心を揺り動かした作品は無数に存在します。同時に、バリバリ売れてる作品の良さが理解できない、何も感じないことだって不思議ではありません。
しかし、値段がついた商品となった時、創作物は全て同じ土俵に立ちます。
それは、お酒やご飯、他の本やゲーム、プラモデル、その他もろもろ……無数の『お金で買える全ての物』と同じ土俵に立ったことを意味します。売られている本は別の本と競いながら、ジャンルの異なる全ての市場と戦っています。あなたが今日の缶コーヒーを我慢してでも買いたい、それはイコール、缶コーヒーの誘惑に負けたあらゆる商品に勝っているからです。売れれば売れるほど、良い作品としての評価は高まるでしょう。
この時、実は『作品を含む金で買える全てとあなたはn対1』なのです。
無限の選択肢の中から、限られた資金であなたが買う時…そうして買う無数の人が多ければ多いほど、その作品は良い作品、価値のある作品になります。何故なら『金銭』という絶対価値基準で計られたものであり、そこに『主観による感動』も『技術的な方法論』も全く関係がないのです。
感動した、良かった!最高だった!…それは全て、買われたあとの話。
そして、好きだから買われた一冊も、興味もなく買った一冊も、売上は一緒。
人がすすめるから、コマーシャルが派手だから、理由はなんでも一緒です。
ただ、これだけは覚えておいてください。市場経済を軸とした商業創作の世界では、売れない作品は駄作、悪い作品です。しかし、それを買った一人一人の主観は、その社会的評価とは無縁、自由なものです。そして、何故売れない作品が悪なのかというと、創作家を中心とした出版事業の仕事仲間、チームの利益にならないからです。逆に売れれば、関わった全ての人が利益を得ます。それは当然、次回作や次巻への資金が豊かになるということです。
どうしても作品の善し悪しを語りたい人は、どうぞ値段をつけてください。
有名なマクロスFというアニメで、ミハエル・ブランがランカ・リーの本気度を試すシーンがありますよね?歌を聴くために集まった場ではなく、休日を過ごす往来のド真ん中で歌えるか、その歌で人を立ち止まらせられるかと。あれはつまり『お前の歌を今すぐここで売ってみろ。休日を過ごす人に時間という名の通貨を払わせてみろ』という意味です。歌も勿論創作物、音痴だろうが酷い歌詞だろうが、その価値を決めるのは聴き手の一人一人。それでも良し悪しを語りたいなら…売れた歌が良い歌、そうでなければ悪い歌です。
最後になりますが、自分の『主観』で良し悪しや好き嫌いを語ることは自由です。それもまた表現であり、共感する人が現れるかもしれません。ですが、覚えておいて欲しいことが一つあります。
自由には責任が伴います。
あなたの自由な発言を見た人は、それぞれ『主観』でそれを受け止めます。
俺が「ふたなり最高ぉ!尿道ファック最高!」なんて言うのも自由です。
ですが、だからこそ俺は「奴は変態だ、関わりたくない」という反応を受け止めるつもりです。勿論、親しい仲に露骨にそう言われたら少し凹みますが、相手へ何も求めず相手のしたいように認めるでしょう。それは、自分の自由を行使した故の責任なのです。
同様に、あなたの発言に共感した人がいたとします。
大事にしてください。
大切な創作仲間になれるかもしれません。
創作物には貴賎もなく、良し悪しや優劣も基本的に存在しません。あなたが一本だけ引いた線に、芸術的な価値が見いだされることだってあるのです。技術的に未熟な作品の表現に、多くの人が感動することだって珍しくありません。しかし、一定の権威を伴う場所では技術力が問われます。また、技術力の高い作品は読まれやすく、その表現や主張が伝わりやすいです。
しかし、創作物の本質は個人が『主観』で感じたものが全てです。
そういった意味で常日頃から自分は発言しており、批判批評に対して否定的な訳ではないんですね。ただ、批判批評というのは『分析』『考察』『比較』等の学術的なプロセスが必要です。有名監督だの有名作家だのの、いわゆる肩書…そうした『権威』があればこそ、それは省略できるものです。しかし、ただ『主観』で思ったことは批判批評にあたりません。『主観』で語る自由は誰にもあることは、先程述べた通りです。
実は自分はもう、創作論や技術論について語る舌を持ちません。
それこそ『敗軍の将が兵を語る』というものです。
自分は商業創作の場で戦い、破れ、野に下っている状態です。再び一線に戻れるかどうかはわかりません。戻るための努力はしているつもりですが、自分が敗者となった自覚があります。その敗因についても、今でもずっと考え、検証を続けています。
だからこそ、正直趣味の場では良し悪しを語りたくないのです。
語りたいのは良いとこ、感動したとこ、好きなとこ…それだけです。
俺が★を簡単にいきなり三個入れるのは、それだけ期待感が持てたという意味です。
誰の作品も皆、検索時に誰かのレビューと共に表示されて欲しい…自分のキャッチコピーの下が空白なのは寂しい、それだけです。勿論、気に入った作品にしか期待しませんし、読んだもの全てに★は入れません。読む中で『これは完結を待って★入れたいな』という作品もあります。
まあ、そういう話です…長々とすまんこ!