考えてみたら、あの日のことを文にするのは初めてだ。
私の住んでいる場所は、被災地からは遥か遠く
本当に辛さや悲しみがわかるだなんて到底言えず
ただ心を痛めていただけに過ぎない。けれど、ずっと覚えている。
2011.3.11
埼玉のとある小学校で、学習支援員の仕事をしていた。
主に1年生のクラスで、学習の補助が必要な子をサポートしていた。
私は別の小学校と合わせて2年間その仕事に携わっていた。
他の学年の助っ人にも行っていたので、生徒たちとたくさん話した。
2年生のザリガニ釣りですごい量が釣れて、教室が生臭かったこと。
3年生の版画の手伝いで、全身絵の具だらけになったこと。
5年生の小数の割り算のノートがきれいで感心したこと。
鮮やかな楽しかった記憶。もうみんな中学生以上だね。元気かな。
6年前のあの日、2時半頃、職員室に戻って帰り支度をしながら
教務主任の先生と話をしていた。あ、地震?と言われたけど
私はわからなくて、とにかく受け持ちの1年生の教室に向かった。
1年1組と2組のドアをあけながら、2人の担任の先生に
話しかけた瞬間、グラっとものすごい揺れが襲ってきた。
私は1組のドアを抑えながら、みんな机の下!と叫んだ。
開き戸は抑えてないと戻って来るくらいに強烈で
校舎全体が大きな船になって、嵐の海に投げ出されたようだった。
1度目の長く大きな揺れのあと、こどもたちを校庭に避難させた。
金曜日だった。ちょうど帰り支度をしていたので
みんなランドセルを背負って外に出た。膝がガクガクしていた。
校庭で余震が来た時、何もすがるものがなくて
いつもはびくともしない地面がぼこぼこの液体になったようで
今までの概念がひっくり返されたような気がした。
ものすごく怖かったのだけど、こどもたちを守らなきゃと思って
私は「大丈夫だよ」と泣いている子たちに声をかけた。
「先生、生きてた中でいちばんこわい」って4年生の子が言った。
そうだよね、先生だってそうだもの。
腰が抜けちゃった1年生の男の子を その子の6年生のお兄ちゃんが
おぶって帰る姿が、まだ脳裏に焼き付いている。
保護者が迎えに来たり、集団下校をしたりする中
私は事務室で電話対応をしてから 家に戻った。
車は大渋滞で、余震のたびに道路が揺れて、涙が出てきた。
家に帰ったら、コップの水がひっくり返っていて
あちこち崩れていた。洋服ダンスの洋服が全部飛び出ていた。
余震に震えながら、毎日を過ごした。
毎日ずっとTVのニュースを見て生きた心地がしなかった。
しばらくは寝ようとすると揺れている気がして、眠りが浅かった。
近所の人の故郷のご両親が何日か振りに見つかった話に安堵した。
車のガソリンが切れそうなのに、常にスタンドは長蛇の列で
コンビニに行って、よくわからずに色々買ってみたり。
電気が止まると聞いて、毛布をたくさん出して来たり。
ここですら、ずっとね、一生忘れられない日だ。
まだ終わっていない、きっとずっと終わらない場所を想って
自分はどう生きていきたいんだろうって、考えてみる日にしたい。