ハロリン深川です(´・ω・`)
皆様、夢はありますでしょうか?
なるほどなるほど(*´ω`*)
それでは志はありますでしょうか?(´・ω・`)
え?夢?志?うーん?
はい!
というわけで!
今日は夢と志というお話です👍
戦後の日本教育で、GHQは教科書から「志」という言葉を排除し、代わりに「夢」という字に置き換えたそうです。
志は「武士の心」と書くことからも分かるように武士道に通ずる精神性があります。
日本の統治を目論むGHQにとって、これは脅威であり、邪魔なものでした。
そこでGHQは様々な政策を用いて日本人を骨抜きにしようとしたわけです。
その中の一つが教科書の改定。
教科書改定の内容の一つが、今日のテーマ、夢と志を置き換えるというものでした。
夢とは、自分が寝ている時に見るものです。
他人が寝ていても、その人の夢を見ることは出来ません。
夢とは個人的なものです。
個人的な夢が絶対に悪いとは言いません。
夢は希望ややる気の源になりますし、現実から逃げるためのシェルターになることもあります。
しかし、今現代の夢を持とう!夢を実現させるために!的なスローガンには、些かの寒さを覚えます。
先ほど言ったように、夢とは個人的なものだからです。
社会が個人的な夢ばかり後押しする
個人的な欲求ばかり肯定する
これは結局、個人的な欲望だけに特化された、ひどく利己的な世界を作る原因になるからです。
利己的な世界は破綻します。
奪い合い、騙し合い、オレがオレが主義の果てに痩せ細っていきます。
そこで打ち勝つことの出来る獰猛な人間だけが得をする世界になります。
それ以外の人間に残るのは「夢破れた人」というレッテルと、心を苛み続ける劣等感です。
ごく一部の夢を叶えた勝者と、大多数の夢を叶えられなかった敗北者。
これを作り出すのが、夢を前に押し出す教育の成れの果てです。
***************
では志はどうでしょうか?
先ほど、志とは武士道の精神だと言いました。
武士道の精神は忠義です。
忠義とは、義に仕えることです。
全ての武士が、心から義に仕えていたとは思いませんが、義こそが最も大切にすべきものだと、武士道の中で説かれてきことは間違いありません。
義とは正義であり個人的なものではありません。
もちろん、個々に与えられた個人的で特別な正義もありますが、多くの場合は社会的なものです。
義は他者との関わり、お天道様との関わりの中に存在します。
これを重んじるのが武士道であり、志です。
仕えるもののために持つ想いが志です。
志には勝者も敗者も存在しません。
志半ばで倒れたとしても、それを引き継ぐ者が表れます。
志を持って殺し合った両者の間には、互いを尊敬する気持ちが生まれます。
生き残った者は敵の志に触れた時、惜しいものを亡くした。と嘆きます。
志には劣等感が存在しません。
勝っても負けても、志が否定されることはないからです。
神風として散った日本兵達の中にも、やはりこのような志があったと思います。
もちろん日本軍の苛烈な洗脳教育があったことは事実です。
しかし自分が捨て駒であると理解しながらも、祖国に残した家族を守るために散った彼らを、洗脳された狂信者、敗北者と斬り捨てる考え方は、夢を土台にした戦後教育の考え方に他ならないように思います。
志を持って生きた人間には、その結果に関わらず充足感があります。
人生に義に仕えたという意味が生まれます。
そこで得た自分という存在意義を、何者にも否定されることはありません。
志半ばで倒れれば無念が残るかもしれまん。しかし必ず爪跡が残り、それを引き継ぐ者が表れます。
何より、天が自分に示した義に殉ずれば、志半ばで死んだとしても、それは天が定めたことです。
その人は自分の天命を全うし、やり切って死んだと言えます。
**************
まとめに入ります。
夢とは個人的なもので、個々人が夢に向かって突き進むと大量の敗者を生み出しながら、世界は劣等感に苛まれて痩せ細っていきます。
志とは義に仕える心であり、個々人が志を持って生きれば、それぞれの人生に意味が生まれます。
そこには勝者も敗者も無く、劣等感も存在しません。
武士は死に場所を求めました。
死に場所とは殉ずるべき義のことです。
それこそが志です。
自分の殉ずるべき義は何か?
自分の志は何か?
夢とは別に、ぜひ考えてみてください。
それはあなたの人生に意味を与えて、虚しさから脱却する光になります。