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江戸時代のよもやま話【雑学】

江戸時代についてのの雑学を書き込む場所です。
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19件のコメント

  • 江戸時代のお風呂は、推定温度が摂氏47度くらいありました。
    関東平野は砂ぼこりが舞っているので、すぐに砂まみれになり、江戸の人たちは好んで毎日何回もお風呂に入ったそうです。
    そして、大都会、江戸にてお風呂に頻繁に入り体が綺麗な人は、江戸に慣れた粋な者として好まれました。
    慣用句の「垢抜けする」はここから来てるんですね。
  • 現代で『江戸っ子』というと、涙もろくて人情に厚い、べらんめえな兄ちゃんというイメージがありますね。
    しかし、江戸時代での『江戸っ子』というのは、都会の真ん中で生まれ育った、流行に敏感でお洒落な男というイメージで使われていました。
    時代と共に、言葉の意味とは変わるものなのですね。
  • 江戸時代というと、男の人は皆頭の上を円く剃る、いわゆる月代をしていたというイメージがあります。
    この月代、現在でいうとヒゲを剃るようなもであり、男の人のフォーマルな身だしなみでした。
    しかし、神官、医者、学者のような『知識人』と呼ばれる人たちは、総髪という月代を剃らずにまげを結う髪型でした。
    これは、月代の起源が戦国時代の鎧兜のための髪型だったからです。
    浪人は月代を剃りませんでしたが、これは単にお金が無かったからです。
    しかし、幕末近くになると、今度は若い武士の間で『だらしない』総髪が流行り始めます。
    幕末の志士が皆総髪なのは、格式に反発する、ロック精神の表れだったのかもしれません。
  • 第四幕にて、すずさんが『だらしない』という言葉を使いましたが、これは当時の若者言葉です。
    当時は倒語と呼ばれる若者言葉が流行っており、キセルをセルキ、場所をショバなどと本来の言葉を逆さまにした俗語がありました。
    ところが中には、しだらないをだらしない、寿司のタネを寿司のネタなど、正式な日本語になってしまったものもあります。
    現在俗語として使われている言葉の中には、未来では正式な日本語になっているものもあるかもしれません。
  • 今回は、江戸時代の二次元美少女についてです。
    江戸時代中期に多色刷りの浮世絵版画技術が確立し、庶民でも気軽に美少女イラストを買えるようになりました。
    二次元美少女にも、時代に応じての流行がありました。その変遷を簡単に紹介します。

    明和年間:1764年から1772年まで
    夢見る乙女、がこの時代の流行でした。柔らかな体つきの、いかにも少女といった浮世絵が人気でした。
    天明年間:1781年から1789年まで
    長身女性、がこの時代の流行でした。十頭身で手足はスラリと長い、理想体型の女性の浮世絵が人気でした。
    寛政年間:1789年から1801年まで
    豊満女性、がこの時代の流行でした。胸が大きく腰がくびれた、肉付きの良い女性の浮世絵が人気でした。
    文政年間:1818年から1831年まで
    ちびっ娘、がこの時代の流行でした。頭が大きくてちんちくりんな、幼児体型の女性の浮世絵が人気でした。

    さて、ここまで読んで気付いた方も多いと思いますが
    実はこれ昭和から平成にかけての二次元美少女の人気変遷とぴったりと一致しています。
    1960~70年代:マーガレット、花とゆめ系の少女漫画のような美少女が流行。
    1980~90年代:ジャンプなどの少年漫画に出てくる、モデル体型美少女が流行。
    2000年代:様々なアニメにおいて、グラマラスでセクシーな美少女が流行。
    2010年代:きらら系と呼ばれるような、幼児体型で描かれたキュートな美少女が流行し始める。

    では気になるのが、文政年間の次にはどんな美少女が流行ったかということです。
    天保年間:1831年から1845年まで
    人外娘、がこの時代の流行でした。表現の規制の影響で、擬人化した猫娘や妖怪女の浮世絵が人気でした。

    つまり遠くない未来には、ケモノ娘やモンスター娘の一大ブームが来るのかもしれませんね。
  • 江戸の庶民には自営業者が多く、夏の暑い盛りには自主的に夏休みを取っていたそうです。
    では、その間の生活費はどうしたのかというと、冬に使う厚手の布団を質に入れて調達していました。
    そして過ごしやすい秋に働いて、そのお金で冬までに取り返していたそうです。
    なお、寒い冬にも働かない人は多く、今度は蚊帳を質に入れて同じ事をしていました。
  • 現代では鶏卵というと、1個15円から20円で買える安価な食品です。
    しかし、卵工場の無かった江戸時代では、鶏卵は鶏が一日一個しか産まない貴重な食料でした。
    値段は茹で卵が八文から二十文、つまり200円から500円もしたわけです。
    日々の食事でも、卵料理は豪華なものであり、一番高い寿司ネタも卵でした。
    風邪をひいた時や吉原に行く前など、栄養ドリンクのように食されたようです。
    江戸時代でマヨネーズ作って大儲けするのは難しそうですね。
  • 江戸の人たちが着けていた下着といえばご存知フンドシですが、男と女で差があります。
    男性用のフンドシには前垂れ布がありましたが、女性用のフンドシには前垂れがなく、性差により使い分けが行われてました。
    現代でも男性用のパンツと女性用のパンティは異なってますが、それを前垂れ布で判別してました。
    なお、歌舞伎で女を演じる女形のフンドシには前垂れがなかったようです。
    また、そもそも女性がフンドシを着けるのは、生理のときや泳ぐときなど限られた場面のみでした。
    また、生理のときに身に付けるフンドシは血が目立たないように、赤く染められたものを使っており、赤フンの由来といわれています。
    女性が日頃からパンティを履くようになったのは、大正から昭和初期にかけての事です。
  • 現代ではお医者さんというと、大学の医学部に合格して、日々の厳しい勉強と実習を経てようやく免許を取得できるエリート職です。
    しかし、江戸時代の医者というのは「当人が看板を掲げれば」誰でもその日のうちになることができる職業でした。
    当然の事ながらやぶ医者も非常に多く、また保険がなかったために非常に高額なお金が必要でした。(初診料が金一分、1万2千円くらいです)
    と、いうわけで庶民は医者にはあまり頼らずに民間療法や神頼みで乗りきっていたようです。
    現在、数千円で江戸時代とは比べ物にならない高度医療が受けられることは有り難いですね。
  • 江戸時代には、子供に人気のお菓子として『文字焼き屋』というのがありました。うどん粉に蜜を入れて水で溶いたものを柄杓ですくって細く垂らし、鉄板の上にて文字などの形に焼き固めたお菓子でした。
    文字だけでなく、亀や鯛の形などの形にも焼いて、スナック菓子のような感覚で食べていたそうです。
    時代が下るにつれ、大きくなり具などを入れるようにもなっていきました。そして名前も『もじやき』から『もんじやき』へと変化していきました。
    東京下町の御存知ソウルフード『もんじゃ焼き』の由来と言われています。
  • 現代に生きる私たちはプラスチック繊維で歯を磨いています。では、江戸時代の人たちはどうだったかというと『房楊枝』と呼ばれる木の枝(柳など)の先を細かく裂いたもので歯を磨いていたようです。虫歯ができたら現在のように金属をかぶせることができないので、一気に抜く以外の治療方法はありませんでした。
    また、歯磨き粉もあったようで、かの有名な平賀源内が売り文句(セールスコピー)を考案したりもしていました。
    江戸っ子にとって『歯が白い』というのはとても重要な事であり、歯が汚れていたり口臭がする者は下品で野暮なものだとされていました。
    日本人がエチケットを大切にする精神は、この頃からもうあったようです。
  • 江戸時代の居酒屋といえば『縄暖簾』で有名ですが、居酒屋といえば縄暖簾という常識が広まったのは実は幕末頃であり、江戸時代を通じての常識だったわけではありません。
    居酒屋が始まったのは江戸時代中期ごろと言われており、様々な酒を呑み比べることができるバーのようなものができ『居続けて酒を飲める店』という意味から『居酒』という言葉が生まれました。
    やがて、煮売り(おでんなど)を肴として出す店が増え、独身者の多かった江戸にて大いに繁盛しました。これが『居酒屋』の由来と言われています。
    なお、時代劇でもよく間違えているのですが、江戸時代の居酒屋にはテーブル机に該当する台は存在せず、客は縁台や畳などに置いてあるお盆から直接食器を手に取って食べていたようです。
    座って食べるだけで驚かれる異世界とは少し違いますが、大勢が同時に使える食卓を考案するだけで、江戸では驚かれるかもしれません。
  • 下手人が出てくる時代劇で『人相書き』として、似顔絵が描かれた紙が高札(掲示板的なアレ)に貼られているのを見たことがある人は多いのではないでしょうか。
    しかし、写真が無かった江戸時代には『下手人の顔を似顔絵で伝える』という発想そのものが存在せず、人相書きには人物の特徴が文字にて箇条書きで書かれているだけでした。
    また、犯罪が起こった地域により奉行所の管轄が厳密に定められており、寺社で起こった犯罪を町奉行が裁くことはなかったようです。
  • 現代において日本国内の通貨は『円』で統一されていますが、江戸時代には『金』と『銀』と『銭』の三種類の通貨が流通して使われていました。
    互いを交換する際には両替屋にて手数料を払って交換する必要があり、江戸のあたりでは『金』が、上方では『銀』が多く流通していました。そして庶民は『銭』を使って日々の支払いを行っていました。しかも日によって交換レートが変動していたので、為替という概念が根付いていました。
    『金』の単位は『両』が有名ですが、その四分の一を『分』、その四分の一を『朱』としていました。『銀』の単位は『匁』つまり重さであり、使われる時はその場で銀貨を切断して使ったりもしたと言われています。
    やがて、明治維新を経て国内の通貨が統合される運びとなったのですが、この時にそれまでの『金』の単位だった『両』を『円』と改めた訳です。
    つまり江戸時代で大金の比喩である『千両』とは『千円』と同義ということになります。
  • 江戸時代の有名な絵師『葛飾北斎(鉄蔵)』が第二十三幕で出てきましたが、葛飾北斎は第十二幕で出てきた『曲亭馬琴(清右衛門)』と友人関係にあったと言われています。作家である馬琴が読本の文章を書き、それを読んだ北斎が挿絵を描くというように、仕事上のパートナーでもありました。二人とも酒を呑まず甘いものが好きだったようで、互いに才能を認め合ってた仲であり、馬琴の家に北斎が居候をしてたこともあったようです。
    当時、高尚な文学といえば漢語で書かれたものであり、大和言葉で書かれた挿絵がふんだんに入った物語は、現代でのライトノベルのように低俗な文化であるとみなされていました。
    そして人気を博した物語は、やはり低俗な文化であった『歌舞伎』によって映像化され、本をあまり読まない庶民がわかりやすく物語を楽しめるということで大好評の娯楽となっていきました。
    現代でも、ライトノベル作品の中で売れ筋の作品がアニメ化され、本を読まない層が楽しめる作品になるという流れがありますが、その流れは江戸時代にはもうできていたようです。
  • 江戸時代において『海外旅行』はすることができませんでしたが『国内旅行』は庶民に大流行のレジャーでした。最も有名なのが『お伊勢参り』ですが、江戸から熱海まで行って温泉につかる『湯治』も人気でした。
    熱海は江戸の人にとっては関所の手前なので通行手形を要せず、女性でも手軽に旅ができるというのも人気の要因でした。『湯入り講』と呼ばれるカンパシステムでお金を出し合って団体で温泉に赴き、七日単位でゆっくり温泉を楽しんだと言われています。
  • 現代においてほぼ全ての学生が勉強している『数学』ですが、江戸時代には『算術』と呼ばれていた数学のような娯楽がありました。数学と言ってもソロバンのような必須スキルではなく、好きな人だけが好きなだけ取り組めば良い、といった形で楽しまれ、江戸の御隠居さんや農閑期の農民などが暇をつぶすために楽しんだ学問でした。
    そのレベルは現代と比べても遜色ないほどに高く、問題を絵馬に書いて神社に奉納し、それを道行く人が解いてまた解答の絵馬を神社に奉納する、なんてことが行われていました。
    現代のように苦手な人が無理やりやらされることはなく、素養のある人がパズルのように楽しんでいたようです。そして、培われた数学知識は田畑の測量や天文学、建築学などに大いに活用されました。
    幕末に日本に来た欧米人には「数学は欧米人しか扱えない」という先入観を持っていた人が多く、日本の庶民が数学を娯楽にしていた事に大変驚いたそうです。
  • 現代では長距離移動をするためには大抵、自動車や電車を使いますが、江戸時代には当然そんなものはありませんでした。
    庶民の足は文字通り、その足です。皆どれだけ遠くても自分の足で歩いて目的地に赴いていました。江戸時代に人力車が発明されなかったのは、車で人を運ぶことが許されていなかったからだそうです。
    そして裕福な者はカゴを使いましたが、これは乗り心地がかなり悪かったそうです。武士も下級武士は大抵は足で歩き、中堅クラスになってやっと馬に乗ることが許されました。
    また、時代劇ではよくサラブレッドの馬が登場しますが、当時の日本馬は今のサラブレッドよりずっとずんぐりむっくりした小さな馬だったそうです。
  • 現代でも関西を除いて大勢の人に愛されている飯の友『納豆』は、江戸時代には既に人気商品でした。当時の納豆の食べ方はというと、そのまま食べる食べ方もあったようですが、味噌汁に入れて食べる食べ方が一般的でした。実際入れて食べてみると美味しいので、是非試してみてください。
    というのも、大豆は乾燥させることで一年を通して保存することができるので、冷蔵技術のなかった江戸時代において安定した供給をすることができた食品の一つであったからです。
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