毎日応援と感想を送って頂き、キースを愛してくださった壱邑様へ。感謝を込めて。
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「ティアさんが長期滞在を許可してくれてよかった。これでオルセン医師の元に無理なく通えるな」
ひと通りの荷ほどきを済ませたキースは、軽く肩をほぐしながらフィオを見やる。
首都アンダルトからファース村までの長い移動に加え、診察、リハビリを休憩なくこなしたせいか、義妹はベッドにぐったり身を横たえていた。
「あの先生、厳しくない……?」
「骨折は治ってきてるんだから、あんなもんじゃないか? ほら、良薬は口に苦しって言うだろ。名医も口は厳しってことだ」
「そういう根性論はどうかと思いまーす」
ふくれっ面をするフィオに安堵して、キースは小さく笑った。
アンダルトの病院にいたフィオは、怒ることも笑うこともなかった。原因は、骨折が治っているにも関わらず一向に引かない足の痛みだ。
このままではいつまでもレースに復帰できない。不安と焦燥から、フィオはどんどん表情をなくしていった。
痛みには、骨折の他になにか原因があるかもしれない。担当医の薦めでキースとフィオは、整形外科医として高名なギルバート・オルセン医師を頼り、郊外に位置するファース村を訪れたところだ。
「まあ、痛みがあるうちは無理するな。今日は疲れただろうから、このまま休――って言ってるそばからなにやってる。お前は」
むくりと起き上がったかと思えば、フィオはそばに立てかけた杖へ手を伸ばす。キースは盛大に顔をしかめた。
「お花摘みに行ってまいります」
「……俺の話聞いてたか? そもそも疲れてたんじゃないのか。ぐったりしてたくせに」
「違うって! 言葉通りの意味じゃなくて、えと、暗号なのこれは!」
ああ、とキースは合点がいく。暗号のことは知らなかったが、女性が恥ずかしがることはだいたい決まっているものだ。
「それならそうと言えばいい。今さらだろ、いっしょに育ってきたんだ」
「子どもの頃といっしょにしないで。……私だってレディなんですけど」
「では、お手をどうぞ。お嬢さん」
「ばか」
軽口を言い合いながらも、キースはサッと歩み寄り、フィオの手を取って腰を支える。フィオも嫌がるのは口ばかりで、大人しくキースに身を委ねた。
そのままふたり連れ立って、宿泊している部屋を出る。トイレは共用で、確か一階にあったはずだ。
「……わかってるよ、お前がもう子どもじゃないことくらい」
だから困るんだ。
「なにか言った?」
「いや、別に」
階段を慎重に下りて、裏手にあるトイレに向かう。その扉前まで来ると、フィオはキースの手を放した。
「ありがとう。戻って休んでてもいいよ。ひとりでも歩けないことはないから」
「なに言ってるんだ。俺も行く」
「は?」
見つめ合って数秒、沈黙が流れた。
「キースさん? なに言ってる、はこっちのセリフですけど?」
「ここは病院じゃないんだ。トイレに手すりはない。介助が必要だろ」
「いやいやいや。どうにかなるって。というか、どうにかするからいいです!」
「転んで悪化させてみろ。ますますロードスターから遠ざかるんだ。それでもいいのか?」
「ぐ……っ」
二の句が告げなくなったフィオから、キースは目を逸らした。
キースとて気まずさはある。ましてやフィオは、密かに想いを寄せる相手だ。しかしだからこそ、これ以上苦しい思いはさせたくない。
そのためなら、なんだってしてやる。
「……わかった。でも絶対見ないでね! 目瞑ってて! いい!?」
「はいはい。もちろんそうするに決まってるだろ。まあ、昔は風呂にも入ってたんだ。お前の体なんて見飽きてる」
嘘だ。本当は想像しただけで緊張して、平静を装うのに必死だ。でも、こうでも言い聞かせていないと、想いを抑えられない。
「あっそ」
刺々しく言って、フィオはトイレの個室に入っていく。その顔は怒りよりも悲しみが濃く見えたが、キースは気づかないふりをした。
「俺が抱えてる。準備できたら言ってくれ」
うなずく義妹を確認してから、キースは腰に手を回し目を閉じた。
腕の中で身じろぐ振動と、かすかな衣すれの音を感じる。
否応にも唾があふれ、飲み込んでしまいたいのを堪えた。そんな小さな音さえ容易に聞き取れる距離だった。
フィオの吐息を胸元に感じた。
鼻腔をかすめる髪の香りに、心の奥底がうずいた。
「フィオ、もう、いいか……?」
「ま、待って。その、恥ずかしくてっ」
「言うな! 俺だってな……っ」
「え。キースも恥ずかしいって、思ってる、の?」
違う、とすぐに答えられればよかった。しかしキースは言い淀んでしまい、その沈黙がもう肯定しているようなものだった。
かすかに熱く感じる顔を背ける。
「……言わせるな」
蚊の鳴くような声で、そう返すのがやっとだった。
「キース……。どうしてそこまで、してくれるの?」
フィオの言葉に胸がドキリと跳ねる。
劣情を抱くこの心を、見透かされた心地だった。さすがに兄の行動から逸脱していただろうか。長年患い過ぎて、時々家族愛と恋情の境がわからなくなる。
「それは――」
「あっ、いい! やっぱいいよ。ごめんね。忘れて……」
しかしフィオは焦った声で遮ってきた。言葉尻がどんどんしおらしく、すぼんでいく。
そんな弱く、いじらしい部分を晒さないで欲しい。今すぐ掻き抱いて、項に顔を埋め、だいじょうぶだとささやいてやりたくなる。
俺も同じ気持ちだ。
そう言えたなら――。
けれどこれは禁忌の扉だ。開けてしまえばキースは、狂うほどの罪悪感と自己嫌悪に、自分の首をねじ切りたくなるに違いない。
「キース、準備できたよ」
長く感じた辛抱の時間が終わり、フィオが遠慮がちに合図を出す。
腰を下ろす彼女に合わせて身を屈めた。
「よし、座れたな。あ」
「バカキース! 見ないでって言ったのに! もう出てって! 早く!」
ひと安心したら、つい目を開けてしまっていた。ただ座っているフィオが見えただけだが、義妹は憤怒し、そのまま個室から叩き出される。
「耳塞いで! というか離れてて!」
「わかったから。ほら離れたぞ」
三歩下がって耳を塞ぎ、ついでに背中を向ける。すると騒がしい声を聞きつけたのか、宿屋の女主人ティアがこちらを覗き込んでいた。
目が合ってくすりと笑われる。
とたんキースは激しく居た堪れなくなったが、世話になる主人に辛うじて会釈を返した。
「トイレだけですっごく疲れた」
「それは俺のほうだ」
帰りも散々文句を言い合いながら部屋に戻ってきた。フィオはベッドに座るなり、シーツに身を投げ出す。半ば枕に埋もれて、恨みがましい目を寄越してきた。
「まさかお風呂も介助する気じゃないよね」
「それもあったか」
「やめて! 竜騎士に訴えるよ!?」
「だがオルセン医師の元に看護婦はいないようだったが」
「タオルで拭くから」
「限度があるだろ。風呂場は特に滑りやすい。ひとりで入るなんて危険過ぎる」
「キース、楽しんでないよね?」
にっこり笑ってみせる。
「変態!」
間髪いれず、飛んできた枕をキースは軽々受けとめた。
「冗談だ。母さんにも来てもらうべきだったなと思ってるところだ」
「うっ。ニンファさんにそんな迷惑はかけられないよ。……どうしようもなくなったら、ティアさんに頼めないかな?」
「聞いてみよう。二、三日置きなら手伝ってくれるかもしれない。それでいいよな?」
「うん。お願い」
翌日、キースがティアに頼み込むと、女主人は快諾してくれた。入浴ばかりでなく、彼女はトイレや着替えや階段の上り下りも、率先して手を貸してくれる。
聞けば、ギルバートが宿をよく入院病棟代わりにするお陰で、介助には慣れっこになったそうだ。
ティアとギルバートは本当に仲がいい。ギルバートが早々に通院から往診に切り替え、宿を診察室兼処置室兼リハビリホールにしようと、笑って受け入れていた。
介助を巡って口論が絶えないながらも、キースとフィオの療養生活は二週間が過ぎた。
「ここは……」
気づくとキースは麦畑に立っていた。手には使い古した手帳とペンを持っている。
そこへ尋常ではないドラゴンの咆哮が耳に飛び込み、顔を上げる。
黒いナイト・センテリュオが、狂ったように翼を振っていた。反らした頭の先から、かっ開いた爪から、逆立った尾から、肌をひりつかせるほどの殺気をみなぎらせている。
次の瞬間、ドラゴンの背中からひとりの女性が投げ出された。
「フィオ!!」
手帳とペンを捨て、キースは走り出した。落ちていく義妹をひたと見つめ、手足をがむしゃらに動かす。
「フィオ! フィオ!」
金の穂を掻き分け、容赦なく踏み倒し、草で指が切れようと構わなかった。
破裂しそうな心臓に鞭を打って、精一杯手を伸ばす。
「……フィオ!!」
自分の叫び声に驚き、キースは目が覚めた。ここはどこだと、せつな脳が混乱するが、すぐにファース村の宿屋<どろんこブーツ亭>だと思い至る。
先ほどまでの光景は、幾度となく見た悪夢――いや、現実だ。
「くそ……。俺があの時、受けとめていれば……っ」
上かけ布団を握り締め、唇を噛む。無意識に夢の映像をなぞろうとする頭を、枕に打ちつけた。
「……ジェネラス、だいじょうぶだ」
竜舎から相棒の気遣う気配を感じ、理性が戻ってきた。呼吸で気持ちを落ち着け、ベッドから下りる。
とてもすぐ寝直す気にはなれない。水でも飲もうと自室を出た。
フィオが泊まる部屋は隣だ。夢のことがあり、どうしても目が吸い寄せられる。
「風?」
扉の前に立ってみると、風を感じた。アンダーカット部分から流れてくる。
窓でも開いているのだろうか。閉め忘れた? この時期、ひと晩中外気に晒されていたら、確実に風邪をひく。
「フィオ、入るぞ」
とっくに寝ていると思いながらも、キースは断りを入れて扉を開けた。
しかし目に映った光景に、小さく息を飲む。
「まだ起きてたのか」
フィオは窓辺にイスを寄せて、ぼんやりと外を眺めていた。下ろした金の髪が月明かりを吸って、白く揺れている。
「シャルルを、感じてるの」
外に目を向けたまま、フィオは夢現をさ迷う声でつぶやいた。
「心が?」
「ううん。まだ閉ざしてるよ。でも気配はわかるから」
「……そろそろやめとけ。風邪をひくぞ」
「怖いの」
窓に伸ばしかけた手が、思わずピクリと止まる。フィオは淡々と夜を映していた。傍らのキースも、星明かりも、その瞳には浮かんでいない。
「眠ったら、シャルルの気配が消えちゃいそうで。朝目覚めたら、あの子は飛び去っているかもしれない」
「……そんなことはない。アンダルトからここまで、ついてきただろ」
「でも、明日はわからない。そうでしょ? 明日ついに、私に愛想を尽かしたら」
ねえキース。
呼びかけるフィオの声は、この夜の静寂のようにどこまでも、おだやかだった。
「シャルルも私を置いていくのかな」
ハッと目を見張る。足の患部に置かれたフィオの手は、震えるほどきつく服を握り締めていた。
「その時私は、シャルルを追いかけることができる……?」
気づくとキースはフィオを抱き締めていた。心臓がドクドクと早鐘を打っている。
まるで悪夢のつづきだった。この胸は焦燥に駆られ、子どものように怯えている。
転落したフィオをもし、あのまま失っていたら――。振り切れない最悪の思考に、狂いそうだ。
「……なあフィオ。ちょっと出よう」
「え。こんな時間に?」
「だいじょうぶだ。そう遠くない。ほら、体を冷やすなよ」
まだ戸惑っているフィオを、ベッドから剥ぎ取った毛布でくるむ。そうして、背中とひざ裏を支え、やさしく抱き上げた。
「キ、キースっ。いいよ。重いよ」
「ああ。軽いはずがない」
「ひどい。そこはお世辞でも――」
「大事なものは重いんだ。お前の重さを感じさせてくれ」
声が低くくかすれ、揺れていた。自分でも情けないと思う。
フィオはそれ以上口を開かなかった。代わりにキースの服に掴まって、頭をそっと肩に預けてくる。
それを了承と取り、キースは部屋を出た。義妹を気遣いながら正面玄関に着くと、扉がひとりでに開く。
「ジェネラス。ありがとう」
相棒のジェネラスが、器用にも扉を開けてくれた。背中に乗るか? という仕草をしたが、キースはやんわりと断った。
「すぐそこだから平気だ」
「ジェネラスもおいで」
手を伸ばして、フィオはジェネラスの首をなでる。その顔には無邪気な笑みが戻ってきていた。
ドラゴンたちはいつも、たちまちにフィオの心をほぐしてしまう。少しだけ相棒が羨ましい。
「ここ?」
「ああ。遠くなかったろ」
キースが向かったのは、宿屋の裏手にある小高い丘だった。大した高さはないが、建物があまりなく畑ばかり目立つファース村では、頭ひとつ飛び抜けている。
頂上からは村を一望できた。
「でも、なにも見えないよ。暗くて」
フィオの言う通り、外灯のないファース村は夜の帳にすっぽり覆われている。
「いいんだ。景色を見にきたんじゃなくて。ここなら風が強く吹いてるだろ? だから、空を飛んでる気分が味わえると思ったんだ」
「……だから私を抱えたの?」
「それもある」
ふうん、とつぶやいたフィオはピンときていない様子だった。
それでも少しだけ身を乗り出し、目を閉じて、髪をなでていく風に感じ入る。遥か彼方の海から森を抜けて届く風は、おだやかで冷たくて、世界の音からキースとフィオを切り取った。
「……うん。風の音しかしないこの感じ、確かにちょっと似てる。それに村がまっ暗だから、夜空が広く感じるの」
「ああ。星がきれいだな。アンダルトよりよく見える」
フィオにつられてキースも星空を見上げた。途方もなく散らばる星、その数だけ計り知れない可能性があり、目眩がしそうだ。
いつか降りかかってくるかもしれないそのすべてから、彼女を守れるだろうか。
(いや。守ってみせる、俺が。なにをしてでも)
きつく腕の中のぬくもりを抱き締める。振り返ったフィオに、キースは問いの答えを返した。
「俺とジェネラスがいる」
「ん?」
「もしシャルルが間違った選択をしても、ジェネラスが止める。そして俺が、フィオを抱えてシャルルの元に運ぶよ」
はらりと毛布が垂れて、フィオはキースの首にしがみついてきた。
「私、キースがいればがんばれる」
「フィオ……」
「今度こそロードスターになるから。そばにいてね、キース」
健気に笑ってみせるフィオに、愛しさが込み上げる。その唇を淫らに濡らす想像を描きながら、キースは家族のキスを頬に贈った。
その瞬間、ふと思い至る。
(今が、一番幸せかもしれない)
翼を失い、地上に墜ちた天女を抱き締めて、その夜キースは夢も見ずに眠った。
終。