• 詩・童話・その他

見える文字と見えない文字

何を見て見えると判断するのか?それ届きようにも、届かないようにも、それを観て、自分の意識と判断するのか?それだけに十四面体の基本観感があると思える。それでいて、どこを自分は見ているのか?それに添うように、それがどことなしわかる自分でいることで、そこに見える文字、見えない文字がわかるような気がする。が、それ以前の問題で、どこを見ているのかもわからない前提であればそこにまた見える見えない文字があるのかもしれません。繰り返しとは言い切れませんが、そこそこの界隈毎があるように思えます。だって一歩踏み出せば、違う世界に行けるわけではあるわけだから。どん詰まりでどうしようもなくても、一歩を踏み出せるか否かで、何かと何かとおもきが変わってくるような。信じる信じないで言ったら、どっちでもいいのですが、それだけに道はあって、ってならばの信じなくちゃ!って言っても、何を?って自分を?それとも形而上的なものなのか、形而下的なものなのか。それは選べるって言ったことだけど、それにまたつきものではある、見える文字、見えない文字、それと無
。この無とは、時に関係しつきものでできものの無をさします。だから、簡単に言ってしまえば、誰にでもある、ボケーってしてしまう時って感じです。だから、それにでも言えるには言える、言葉ってのがあって、それがまた見え隠れしたり、遊び始めちゃったり?それは自分の振る舞いが元となったりする場合もあるのかもしれません。次回は、言葉の作る世界ってのを題にして書きたいと思います。

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