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「世間」と言う言葉に、人々はどういう意味を込めて使っているのかの考察

単なる覚書

現代日本での「世間」と言う言葉に含まれる意味合いを考えてみました。
会社や同窓会を世間と言う人はいないと思う。
現在は国と言う枠組みを与えられているので、
「自身の所属」する、「自身が同族と捉える者達が構成する」中小のグループ(家族、学校、会社)ではなく、最大グループ(国)に所属する、すべての人々が営んでいる地球規模の世界よりも、より限定された「国」と言う小規模世界こそが「世間」な気がしました。
「自身の把握が及んでいる」「自身が関わる」と誤認している範囲、こそが世間なのかもしれない。

諸外国の動きが自身の行動を縛る事もあると思いますが、
「実感」としてはわかないと思います。
目に触れる、肌に触れる、耳に触れる事が多い範囲を、
人は自身をしきたり等で縛っていると「実感」するのではないかと思います。
「世間」とは感覚であり、その使われ方は、主観に準じたあまりにあやふやなものなのではないか、等と思った。

※同族とは何かの定義も必要と思いますが、そう言う事も考え、文にすると、それは膨大なものになる気がしますので、ここではやめて置きます。

3件のコメント

  • うーん、この人の定義した世間であり、利害あり繋がりある集団を世間、としようと言う事か。
    やはり学ぶものではなく、知るものなのかと思った。
    ある一視点を知る事が出来る、なのか。

    そもそも学ぶも主観によるものだしねぇ。
  • うーん、この人は、「明確な意思を以て形成した、人々の営みの空間を社会」「意識せず自然と醸成された人々の営みの空間を世間」と定義しているのでせうか。
  • 確かに社会と言う言葉の響きは鋭角で、世間はもわもわした感じ、この二つの言葉が指し示すものは全くの別物。
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