単なる覚書
現代日本での「世間」と言う言葉に含まれる意味合いを考えてみました。
会社や同窓会を世間と言う人はいないと思う。
現在は国と言う枠組みを与えられているので、
「自身の所属」する、「自身が同族と捉える者達が構成する」中小のグループ(家族、学校、会社)ではなく、最大グループ(国)に所属する、すべての人々が営んでいる地球規模の世界よりも、より限定された「国」と言う小規模世界こそが「世間」な気がしました。
「自身の把握が及んでいる」「自身が関わる」と誤認している範囲、こそが世間なのかもしれない。
諸外国の動きが自身の行動を縛る事もあると思いますが、
「実感」としてはわかないと思います。
目に触れる、肌に触れる、耳に触れる事が多い範囲を、
人は自身をしきたり等で縛っていると「実感」するのではないかと思います。
「世間」とは感覚であり、その使われ方は、主観に準じたあまりにあやふやなものなのではないか、等と思った。
※同族とは何かの定義も必要と思いますが、そう言う事も考え、文にすると、それは膨大なものになる気がしますので、ここではやめて置きます。