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兵糧奪取作戦

つづき

午前3時に準備が始まり4時には千葉城に集結。
千葉城ってのは熊本城内の一角ですね。砦みたいな場所。

で、このページが、続きなのか、散逸しているのかあやしいですけど、城内から西郷軍に突撃していって、午後2時に引き返してきていますね。

敵の七百六十俵の米を奪ってきました。
公式には七百二十俵なので、誰かが四十俵ちょろまかしたらしいですね。

文中「子飼」は地名。

慌てて敵が攻めてきて、引き揚げてきた官軍と遭遇戦。大尉某とは、おそらく、小川又次大尉。メッケルから「児玉と小川が優秀」と称された人物。…と思う。

死者は、五、六人。
生捕りは七人。

あとは、どこそこに、何人倒れているという記述ですかな?

3件のコメント

  • 公式の記録では、この時にようやく城側と官軍の連絡がつき、官軍は城内の兵糧が不足していると気付き、早急に熊本城救援に向かいます。

    つまり、ここまで、熊本城は西郷に包囲されたままということですね。

    薩軍は、包囲したまま、官軍と戦っています。
  • 執筆&文献解読お疲れ様です。

    ・ここで「官軍」は救援軍ということでしょうかね。
    ・「新屋敷」は熊本城外の米蔵? 官軍哨兵が守っていたようだが、城攻めするのに薩摩軍は制圧しなかったのかな?
    ・米を運搬して帰ろうとしたら敵が襲ってきた。
    ・それを救援軍の某大尉率いる十数名が退けたと。5,6名は「死傷」ですから、怪我人を含めた数でしょうか。
    ・籠城側は「大尉某だ!」とわかるものかしら?(後付け情報のような……)
    ・十数名で対抗できる薩軍勢力って精々数十名でしょうが、その戦力で大隊を追撃したの?
    ・戦果報告がよくわかりませんね。敵の死者が数知れず? 当方損耗が死傷者5,6名なのに?

    どうも状況のつじつまが合っていない気がしてしまいます。
    まあ一兵卒の記録だとしたら、軍中でわけもわからない状況とは思われますが……。💧
  • わかんないですよねー。
    彌三郎のいう「官軍」が籠城している側か、救援している側か、どっちなんだろ?
    多分、籠城側だと思うんですよねぇ。

    他の文献によると、この兵糧を奪った籠城側の軍は、そのまま城に戻って、もう一隊が、南の宇土まで進軍して、ようやく合流して、城の窮状を知らせたというので。

    新屋敷は、薩軍側の兵糧庫のあるところですね。
    白川を背に薩軍は包囲布陣しています。新屋敷は白川にかかる子飼橋を渡った先なので。

    こいつを奪ったようですね。
    で、気付いた薩軍が追いかけてきた様子。

    大尉かどうかはわかると思います。
    明治4年に階級章が設定されています。階級章を見ればわかると思います。
    ただ、大尉の名前を何某とした理由は、わかりません笑
    自分の直属の上官じゃないと、名前も知らないんですかね?

    ……いや、これ、彌三郎は城内居残りの予備隊で、この戦果については伝聞だとしたら、戦友が「大尉が来てくれて助かったよ」的な感じで聞かされたのかもしれないな……。

    この時、城側3500人は、三つに分けて、一つは東側を攻め(兵糧奪った部隊)、一つは南側を攻め(宇土まで行って官軍と遭遇する部隊)、城に残る部隊になったようです。この居残りに彌三郎がいた可能性が高いです。

    ちなみに続きもあって「官軍もまた死傷若干」とあります。
    書き方としては、割とこの戦いは圧勝だったのかも?

    これ、一兵卒のみた西南戦争の記録であるのはほぼ間違いないと思います。
    この戦いの後、彌三郎は軍を辞めてしまっている様子です。
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