自分がわかってくれない、と思うこと…。
自分が透明人間のように、見えない存在のような
見られていない、と思うこと、というのは
果たして、私だけだったか?ということを問うてみた。
それは違った。
それは、問題のあとに順繰りに自分と両親を含む全てが
きっと、自分の気持ちを理解されない孤独感を感じていた。
じゃあ、その状況下で、娘の気持ちを受け容れる、聴く、寄り添う、ということが、果たして可能なのか?
客観的に見ると、気持ちの余裕があれば、という前提付きの可能、だと思う。
でも、そもそも気持ちに余裕があればそんなことはしないからそんな時なんてない。
来ない時、というのを待ち、
謝罪をすることを待っていたのかもしれない。
だから本来は、ありのままの両親を受け入れなきゃいけなかった。
されど、溜まりに溜まった怒りと我慢や攻撃されて甘えられてきた事実が私自身を怒りに震わせたように思う。
私は、「非行とは隠されたSOS」だと思う。
本当にキレるときというのは、とてつもなく静かであり
脳裏にぶちぶち、と音がするんだな、と酷く冷静に観察していた自分がいた。
そして、関心がなくなる。
いいんじゃない、それで、と言えるのは
どちらでもいいんじゃない、と言えるのは
ある意味で、キレたからであるのかもしれない。
一定の許容を超えると、酷く静かで、酷く冷静な醒めた自分がいる。
感情的に反応がある場合は傷がまだわかりやすいが
感情がすでに無になり、且つ無気力に近い場合においては
注意が必要に思う。ヘルプを出せない状態であり、且つ心から助けを信じられない状態だったと思うから。
冷静な自分というのを、私は家族間において
特に母親に、酷い!冷たい!と言われ続けてきた。
どうせあんたなんかに私の気持ちなんてわからない、と…。
だから、私は母の気持ちがわかるように、分かれるように
母みたいになって、母の気持ちをわかろうとしたのかな…。
敢えて同じ土俵にたっていたのだろうか、考えすぎか…。
冷たく突き放すような物言いをしないように
すぐ不機嫌になる母を宥めたり透かしたりすることを
どこかしらで放棄したかったように思う。
そしてそれは、洗脳された自分の反射的な反応でもあった。
悲しいかな、他人と関わっているときはそれがわからない。
離れて初めて、気づくこともあるな、と。
なんとも言えない気持ちになる。
妬みと嫉妬の違いというのを最近知った。
妬みとは、切望、願望、劣等感
嫉妬とは、疑い、拒絶、敵意、怒り、らしい。
私にとって、家族は、私がいなかったら完璧であろう、家族で
もしかしたら必死に世話をしたり、役に立つこと、頼られることで価値があることを認めてほしかったのかもしれない。
でも、頼られることで価値がある、と思うのは危険だ。
頼られることで、忙しくて、自分のことは後手後手に回してしまうからだ。
同様に、人に頼ることが自分がちょっと苦手意識があるのは
頼られることで優越感を感じることが人にはある、と知ってるからなのかもしれない。
それは、その人が頼りない、とかじゃなくて、
頼れるところと頼れないところがある、と思うから。
まあ、あとは私個人の価値観が、その人が私に役立とうとして頑張るのを見てられないのかもしれない。
私も、自分がそんなに尽くされたりしてもらうことに慣れてはないし、もし慣れていた、としてもなんというか…なんていうんだろうな、代償がある、と思っている。
尽くされたり、してもらう、という言葉が好きじゃない。
たまに押しつぶされそうになるし、尽くされた分返せないと
自分が酷くちっぽけに見えた過去があるから。
自分、無力だなって。
何もしてあげられないなって。
てももし、そう思う人がいたら、私はなんて伝えるか。
「同じように困っている人にしてあげて」と言うだろうな、と
それなら少し、受け取れるだろうか…。