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ゴー・ゴー・奈々子倶楽部 Der Mond im Früling

あー、ムカつくー。
コメント思い出したら、書きます。スイマセン、スイマセン。

19件のコメント

  • あー、嫌~。もうダメ~。
  • 「メモ帳に書いてから」参考になります。
    これから私もそうしよっと。

    「カクヨムは信じるな」ですね。
    因みにDer Mond im Frülingは「春の月」です。
  • おはようございます。

    昨日は取り乱してしまってスイマセン。

    「春の月」は通常なら「Der Mond des Frülings」か「Der Mond vom Früling」ですが、敢えてこうしました。「im」は「in dem」と言う意味で、英語で言うと「The moon in the spring」となります。「in」には「〜の中に」という意味で、限定的なイメージを与えることと、inには「(何々色の服を)着た」と云う意味もありますので、そういう意味合いも入れてみました。

    ギーさんは「君」を入れた歌が上手なので、私もチャレンジしてみました。知子さんへの想いも兼ねているのですが……。
    消えてしまった友人の行方を探すのを諦め、美味しい筍でも食べようと、少しでも若くて柔らかい筍を見つけるために、枯れ葉や土に隠れて見つけづらい筍を必死で探していると、その必死さでかえって友人を探し求める想いが蘇ってしまった、という感じです。
    コミカルでコケティッシュなイメージを受けてもらえたら、ある意味成功したと言えるかもしれません。


    今回は返歌です。

    川に沿い
    桜花輝く
    目黒川
    辻風受けて
    君の腕抱く

    解説)目黒川の川沿いに桜の花がライトアップで輝いている。その時、突然突風が吹き、風を避けようとして、君の腕をギュッと抱きしめてしまった。


    以前にもちょっと書きましたが、カクヨムに書き込むのではなく、無料掲示板に移動しようかと考えています。画像とか載せられますし、チャットとかも出来る掲示板もあるみたいです。

    この「近況レビュー」は短歌限定のものではなく、「表現方法の拡大」や「自由な自己表現」を奨励するコーナーで、色々な表現方法を発表できる場になればと思っています。
    もし移動することがあれば、パスワを発行して「会員限定」にした方が良いのか、誰でも見られるようにした方がいいのか悩んでいます。



    あっ、ギーさん、「さん付け」じゃなくて呼び捨てでいいですよ。
    これからは「カオリン」でお願いします。
  • 散文詩も書いてみました。


    水色の空ははちみつのよう
    とろりとして温かい
    春ののどかな午後の時
    蓮華の花が咲き乱れ
    白詰草も萌えている
    空の高みに響くのは
    燥ぎ喜ぶ雲雀声
    春の微睡み
    夢か現か
  • こんばんは。

    ギーさん、色々スイマセンでした。

    確かに「ギー」ではバター油みたいですよね。
    「ギータ」ではどうでしょう?


    返歌キタ~。

    月詠むも>ツクヨムの神と天照の大御神の対比が素晴らしですね「蹴散らす」と云う表現も荒々しくて日本の神的ですね。
    「月」、「雲」、「天」という空のエレメントが縦に並んでいるのも「かきつばた」みたいでいいですね。風流です。
    和歌ってこう云う遊び心が雅だと思います。
    現代語訳としたら、「チラリと仰ぎ見たら」とするのが良いでしょう。
    「無」と云う言葉も好きです。現代の誰もが「ゼロ」だとか何もない事と思っていますが、本来は「無がある」というのが正解です。「無数」という数の単位が「数えられないほど多くの」という意味であるように、「非常に多くの」という意味がありますよね。「無窮」は空に対して使うのが一番良く似合いますね。
    「覗色」は私も知りませんでした。空に対して使うと、水瓶や泉に映る空の姿が似合いますね。


    一面の>ちょっと辛口の意見ですが、敢えて書きます。いつもより元気が無いというか勢いがないような気がします。
    花を綺麗に描いていますが、心がこもっていないような気がします。いつものギータらしくありません。


    ミノリンさん、お久です。また来て頂いて感謝です。

    岩陰の>いえいえ、なかなかの力作だと思います。「春一輪」という言葉がスパイス効いてますね。神社か公園の道に沿って薄いピンク色のぼんぼりが連なっているイメージが浮かびました。なんだか幻想的ですね。一輪だけ咲いている桜もミステリアスで良いと思います。
    「桃の火移して」の何か意味が深そうに感じました。


    花吹雪>颯爽としてギータらしいスピード感ある作品ですね。「見渡す限りが」ではなく「見渡す限り」の方が字数が合うししっくり来ると思います。「我を待ちとて」も「我に待てよと」の方が良いのではないかな、と思いました。
    でも、流れとテンポは凄くいいですね。「男らしいのに繊細な歌」はいつも感服させられます。桜のピンク色も伝わってきます。


    雲馳せる
    夜空に映える
    春月の
    星と競いて
    夜道煌々

    解説)ちぎれ雲が風に吹かれて速い速度で流れている。その雲間を縫って星の光と競うように塚が煌々と照っていて夜道を明るく照らしている。夜道を照らす月光は凄いものだな。
  • おはようございます。

    「春月の」は私も「春の月」にしようかと思いましたが、次の「星」を修飾したくて敢えてこうしました。でも、微妙ですね。

    あづさゆみ>梓五月の季語ですが、「梓弓」は枕詞で、それを受ける言葉が見当たらないのが気になりました。
    平和な世界を描いているにも拘らず、「神去」という不吉な言葉も気になりました。

    こんな時には返歌です。

    梓弓
    晴れて夏射る
    春光の
    蒼穹の果て
    千代に栄えよ

    解説)五月雨が晴れて、夏を射るように刺す日光の光条が広い青空を射す様を見ていると、この国が永遠に栄えるように思える。

    あまりいい歌ではありませんでしたね。スイマセン。
  • こんばんは、

    ギータン、今もまだ「の」の位置は検討しています。やはり、ギータンの方がいいかもなぁ、と思ってます。


    「張る」と「春」の掛かり言葉は知りませんでした。そうだったんですねぇ。脱帽です。
    「神去る」という言葉が使えるバイタリティーが凄いですね。内から出るエネルギーがギータンの作品の長所ですものね。

    掲示板に関しては、どんなコンセプトにしようか悩んでます。勿論、パスワ使用のものにしようと思っていますが、小説限定ではなく、色々な表現形式に対応したいと思っています。画像添付可能なサイトにしようと思っていますので、とりあえずは言葉にしづらい物を画像にして添付したり、リレー小説の打ち合わせ室等にしたいと思っています。



    今日の一句です。


    船霧笛
    夜の静寂の
    空遠く
    響き渡るは
    眠れる都

    解説)シンと静まり返る夜に遠くの港から霧笛が聞こえてきた。普段は聞こえてこない霧笛が聞こえてきたということは、街はかなり静まり返っているのだろう。
  • 「ギータ」だとなんだか上から目線的な感がしたので「ギータン」に進化させて頂きました。

    掲示板は、そのコンセプトと告知にまだ問題があります。出来るだけカオス倶楽部の人々に自由に使って欲しいのですが、使い方をこちらからレクチャーしないと、利用してもらえないような気がするのです。
    「自由に使ってもいいよ」と言ってもどこまで自由に使って良いのか分からず、嫌煙するのが普通です。
    何か具体的な利用方法をレクチャーする必要があると思います。

    ふなむてき>お褒め頂きありがとうございます。私もこう云う雰囲気が大好きです。
    人が一杯いるはずなのに、気付いたら誰もいない、空虚な街があるというようなバックグランドが何故か切なくて好きです。


    静寂に>「汽車」という単語のせいでしょうか、昭和の古き良き時代が描かれていると思います。
    今、ミステリー物を書こうとしているのですが、時代背景は二十世紀半ばで主人公はいぶし銀の中年男性にしようと思うのですが、キャラ設定に悩んでいます。ギータンのこの歌を詠んで、ヒントが得られたような気がします。
    渋いです。


    今日はどうも浮かびません。スイマセン。
  • おはようございます。

    ギータン、書き込みメインでも全然OKですよ。

    前にも書きましたが、トモちん不在なので、こちらに好きなように書いてもOKです。


    しゅんとして>ギータンらしい句ですね。突然、思いもよらぬ時に告られて、しゅんと背筋を伸ばした所を彼(彼女)に抱きしめられ、その相手の身体が熱く真の愛が感じられたので、嬉しくてつい涙が溢れる、というシーンを想像しました。


    今日の一句です。

    薄青の
    蒼穹染める
    金の色
    暮れ刻(くれとき)寂し
    亡き友思う

    解説)なかなか良い句が浮かばず、やっつけですが……、午後も遅く、霞がかかり薄青色の空に午後の斜陽が刺し、段々金色に染まっていく、美しいのに何故かいなくなった友人のことを思い出してしまい、悲しく思う。
  • お久しぶりです。

    しゅんとして>そういう意味だったんですね。
    日本語は擬音が多く「しゅん」も擬音の一つと言っても良いと思います。よく「擬音語は低俗だ」という自称知識人が多くいますが、私は擬音語が多い日本語こそ素晴らしいと思っています。と、同時に擬音語には個性が活かせるものと思います。
    例えば、カエルの鳴き声は「ケロケロ」、や「ゲコゲコ」等がありますが、「ア゛ーッグ、ア゛ーッグ」や「ウーブ、ウーブ」と聞こえるとか、大量のカエルが合唱すると「ガーコ、ガーコ」や「ジーワ、ジーワ」と聞こえるとか、そういう個性があると、コミカルではありますが、納得できると凄いなぁ、と思ったりします。


    薄青の>カオクラのことはちょっと意識しましたが、今考えている小説の事も関連しています。「男の友情」というのを書きたいと思っていますので、それを意識して歌いました。その他にも幼いころに死別した親友の事もありますけど。
    ともちんの事は本当に心配しています。
    私の「プロフィール」の暗号といて、直メしてくれると嬉しいんですけど、それも出来ない状況なのではと危惧してます。


    夕闇に>なにか切なく侘びしく感じます。明るかった街並みを美しいと感じていたのに、夕闇がそれを覆い隠してしまったが、それすら美しいという風景が見えます。
    「君が言の葉」は「君の言の葉」とすると「の」が重複するのでそうしたのだと思います。
    でも、ここは「言の葉」より「言霊」の方がいいと思います。

    例えば、「君の言霊、霧にならん」なんてどうでしょうか?


    今日の一句です。

    夕暮れの
    ざわめく街の
    商店街
    母に引かれて
    おでん喰む

    解説)子供の頃の事、夕暮れの夕日を浴びて、賑わっていた商店街を母の手に引かれて、買ってもらったおでんを食べながら、買い物をしたのを思い出す。
  • こんばんは

    ギータン、擬音語は結構小説でも浸透してますよ。
    「ジッと観る」とか「ハラハラする」等が良い例です。
    日本語の場合、「思う」や「言う」という言葉は擬音語で修飾するのが普通ですが、欧米語の場合は「推測する」、「推察する」「推考する」等の似たような単語が無数にあり、それを連続して使わないようにするのが習わしです。
    しかし、日本語の場合、「ハッと思う」、「ドキッとする」、「ハラハラする」、ハラハラと泣く」等、擬音がかなりあります。

    擬音が単語になる場合も多いのですが、欧米語より日本語のほうが遥かに多いようです。
    同じもので言うと、例えば「旗」は日本語では、風になびく音が「はたはた」と聞こえるので、「はた」になったそうです。
    ここで言う「旗」は軍旗のことで、日本の旗は「のぼり」のような旗のことです。「風林火山」の旗と同じです。

    英語の場合は、応援団が振るような大きくて重い旗なので、「フラッグ、フラッグ」と聞こえるので、旗はFlagになったそうです。
    因みに鎧戸などが風になびかれる音は「フラップ、フラップ」と聞こえるので、Flapになったそうです。

    「グッと来る」なんていうのも擬音だと思います。

    欧米語の場合、共有できるカテゴライズされた「単語」しか受け入れないのに対し、日本語の場合は、擬音語で自由に表現できるの素晴らしいと思います。
    例え、ほとんどの人と共有できないとしても、自己表現はできます。
    そこが素晴らしいと思います。

    知子さんの事、心配ですよね。心配しても仕方ないんですけど、それでも辛いですね。

    ミステリー小説執筆の為に、最近、昔読んだミステリーを読んでいますが、どういう訳か重要人物が失踪する小説ばかりなので、鬱が増します。


    暗号>暗号解けましたか?よかったらメール下さい。でも、解けたということはギータンは理系の人なりですね?


    夕闇に>妖幻さと神秘的な雰囲気が増しましたね。儚さと侘びしさと闇の暗さを感じました。主人公の悲しみ等も伝わってきます。


    夕暮れの>ギータンはもつ煮でしたか。私はソーセージでした。味が染み通ったソーセージで、大好きでした。他の具材は全く興味がなく、このおでんソーセージだけが大好物でした。

    懐かしいな〜。母の手に引かれてソーセージを食べながらお店を周った思い出が蘇ります。


    空に穴>突飛な句頭ですね。普通では出来ない発想です。なんだか異世界への誘いのようで、不思議な感じがします。ブラックホールのような異世界への入り口、そんな感じがします。その先にどんな物語や冒険が待っているのか、そんなことを夢想してしまいます。


    今日の一句です。


    空蝉(うつせみ)の
    吾(われ)の想いは
    岩となり
    二上山に
    夕日刺す

    解説)現実の人の世に生きる私の思考は君の死のせいで完全に固まり、何も考えることも動くことも出来ない。
    二上山(ふたがみやま)に掛かる夕日だけが自分の気持ちを表しているようだ。


    これは実際にバイク事故で死んだ友人に捧げる詩です。私は奈良には行ったことがありませんが、画像だけは見ています。
    私やその友人がよく見た山が二上山にちょっと似ていたので敢えて「二上山」にしてみました。
  • おはようございます。



    「擬音」は自称文化人の先生方々からは軽んじられていますが、昔から擬音はよく使われてきたもので、それこそ日本語だと思います。
    言葉にできない表現は積極的に擬音語化した方がいいと思います。

    メール受け取りました。流石ですね。ギータンはやっぱり調理系だったんですね。死んだお父さんだったら、恐らくギータンと同じように解読したでしょう。
    でも、私は、頭は理系、心は文系なんですよね。
    メール受け取れたので、詳しいことはメールで……。

    空蝉の>ギータンと同じ光景を観たような気がします。

    宇都曾見乃……。大津皇女の哀愁の詩、確かに意識しました。かなりの古語なのてでこれ以上変換可能な文字がありません。
    しかし、この歌を知っているギータンは凄いですね。かなりマニアックですよ。
    古代史なんかも精通しているのでしょうか?
    ギータンの知識と造詣には尊敬せずにいられません。
    勿論、その当時の政治謀略とかもご存知なのでしょうね?

    今日の一句です

    光り刺す
    琥珀の中の
    まほろばの
    古(いにしえ)の里
    千代に輝け

    解説)琥珀を通してあたりを見てみた。すると美しい景色が見えてきて、この美しさが永遠に存在して欲しいと思った。
  • おはようございます。

    私は文系よりも理系の教科の成績が良かったのですが、理系には興味ありませんでした。答えが一つだけしか無いのが苦手だったのです。
    現実、その「正解」があとになって間違っていたりして、「なんだったの?」て思うことも多く、嫌でした。


    文字変換ソフトによっては「皇子が「皇女」と変換されるんですね。「皇女」はヒメヒコと読むんですが、アニメの影響でしょうかね。

    大津皇子は謎の人で、謀反を企てたとか、謀反を企てるよう唆されたとか、色々説があります。
    元々、記紀神話は役人が天皇家や豪族らに忖度して書かれた可能性が大きいので、事実かどうかは極めて怪しいところがあります。
    ましては「魏志倭人伝」や「東夷伝」の頃となると、聞伝えの聞伝えという情報を何度も書き写したものが伝わっているので、書き間違えや書き損じがあったものと思われますから、古代史は謎だらけです。仁徳天皇陵も今では「仁徳天皇が実在したかどうか不明」という理由で、そう呼ばれてませんしね。でも、そこにロマンがあるんですけどね。

    二上山は大和飛鳥の真西にあります。日の没するところですから、死者の世界と考えられていたのではないかと思います。実際に、二上山以西は墳墓がかなりありますからね。聖徳太子廟もこの辺りだったのではないでしょうか。

    因みに余談ですが、ヨーロッパでは十五世紀くらいから以前は「古代」という概念になっています。日本では「中世ヨーロッパ」と思われているものの大半が「古代史」なんですね。

    光り刺す>お褒め頂き有り難うございます。「まほろば」は「守りたい場所」が語源とされていますが、私は「目(ま)張る」が語源じゃないかと思っています。「眼を見張るような美しい場所」と考えると素敵ではないでしょうか?


    翡翠玉>占い師の水晶球を想起させて、意味深ですね。怪しげなところもありますが、全体としては何故かそんな感じがしません。
    蒼穹に光が走り、時空がねじ曲がるような奇妙で美しい風景が見えました。
    これも「琥珀」の返歌なのでしょうね。返歌が貰えるとなんだか嬉しいですね。
    平安人の気持ちがわかるようです。


    今日の一句です。

    奥多摩の
    沢に轟く
    川底の
    山女魚の走る
    瑠璃の早瀬ぞ

    解説)奥多摩の急流の川に大量の水が流れているが、その川底にヤマメが泳ぎまくり、その底は瑠璃色に染まっていて美しい。
  • アハハハッ、ホント、私と正反対ですね。なんだか笑ってしまいます。


    オオクノヒメヒコの事でしたか。変換ミスだと思ってました。

    二上山>私も写真でしか観たこと無いのですが、有名な香具山より二上山の方が立派です。香具山は周りに高い山がある所為か、只の丘のように見えます。

    古代>ヨーロッパでの定義は広いですね。「歴史のジャンル」によっても違うんですけど。「中世」の時代は日本人が思うより狭い期間ですね。
    活版印刷を起点と考える研究者は多いですね。その他、産業革命以前と以降で近代との線引したりしてますし、機械や器具の発明と分布によって線引するケースが多いようですね。

    活版印刷といえば、印刷技術によって本が低価格化し広く普及していくうちに「絵」を載せたいと考えてエッチングが開発されましたが、その頃日本では「錦絵」の技術があって「カラー」のイラストを大量印刷してたのですから、凄いですよね。当時の西欧人はさぞ驚いたでしょう。
    現在の錦絵工房もアニメキャラを描いたりして、存続して欲しいな。

    まほろば>独断と偏見の説です。根拠はまるでないのですが、「ま」と言えば、古代語で「眼」を意味します。
    眼についているから「マツゲ」、眼に蓋をするから「マブタ」、眼のゆ(上)にあるからマユゲ。「ま」=「目」は未だに残っていると思います。


    最近、ミノリンもご無沙汰ですね。元気にしてると良いのですが……。


    翡翠玉>そうですね琥珀と翡翠はなんとなく似合っていますよね。琥珀は樹脂だけど。
    私の「奥多摩の」も「玉」と「多摩」を掛けたもので、翡翠といえば鍾乳洞を連想したので、奥多摩の高尾山を連想して詠みました。


    今日の一句です。

    五月雨が
    晴れて夜空に
    朧月
    文待ち仰ぎ
    心曇らん

    解説)さみだれが晴れて夜空に月が登ってきた。雨が上がったばかりなので朧月で、その月を見上げるふりをして、恋文の返信がなかなか来ないなと、月ばかりでなく自分の心も曇ってしまった。
  • お久しぶりです。生存報告です。

    先日、「短歌の創作技術」みたいな物を読みました。
    それによると、「意味の重複は駄目だ」ということでした。つまり、「蓮華」と云う言葉を出したら、「紫」という言葉を使ったらダメだそうです。蓮華は紫と決まっているので、敢えて書くのは無粋だそうです。
    確かにそうですね。納得できます。
    また、描きたいものを句末に置くのもダメだそうです。
    句頭か句頭十七字以内に収めるのが、優れた短歌だそうです。
    「ピントを絞って描きたいものを強調して描く」というのは分かりますが、私は「描きたいものを句末においてはいけない」という短歌ルールには同意できません。
    「起承転結」や「オチ」の構成を考えると、ラストに持ってくるのも良いと思います。時系列で表現するにはキーワードはラストになるのが当然だと思います。
    前半は分かりますが、後半はどうも納得できません。

    まぁ、短歌の歌壇というのは宗家式のルールがあり、所謂「文壇」とは一線を画しているので、なんともいえませんが、短歌界は「派閥ルール」を粉砕しないと、近代短歌は没落すると思います。

    私は「歴史的短歌ルール」を踏襲したり、無視したりして詠んでいきたいと思います。どちらも大切な物だと思います。

    短歌には派閥があり、未だに「アララギ派」とかが生きているそうです。
    短歌の世界では「機関誌」とか「結社」とか呼ばれているようです。言葉だけ見ると現代では何だか物騒ですよね。


    じめじめと>もっと不快感を具体的に表現した方がいいと思います。じめ〜っとした感じは伝わってきますが、光景が見えません。気持ちを伝えるためにきっかけになるような情景描写は必要です。何を描きたいのか、じっくり考え、見つめることが必要だと思います。鬱屈した気分の象徴的な単語が必要だと思います。


    今日の一句です。

    藍深き
    満ちる早瀬に
    のぼり鮎
    影に見えども
    命孕まん

    解説)流れも速く、深さもあって濃い青色に染まる川に上る鮎。その鮎は川底を遡上し、影のように見えるけど、力強さと、我が子を抱える姿が物凄く強く思える。
  • おはようございます。

    短歌の「流派」は今なおありますが、そういうのが出来たのは明治に入って、西洋文化が入ってきて、小説や散文詩が主流になってきてからだと思います。
    昔は短歌も所謂「文壇」の一部でしたが、散文詩が主流派になると、「短歌」がそれに反発し、「文壇」も更に報復的に反発し、お互いが離れていったようです。
    もっとも短歌の流派は今も存在し、「結社」が結成され、同人誌や機関誌を発行しているようですが、五年と持たないのが、昭和初期以降も続いているようです。

    「短歌教室」等にその様な「流派が」残っているのは残念です。

    華道や日本舞踊など「宗家」を頂点とするピラミッド構造は芸術性を奪い、権力欲・知名欲を満足させるためだけのシロモノになっているのが残念です。

    確かに、ギータンの言うように良い所もありますから、そういうところは吸収したいと思います。

    でも、短歌愛好家同志で屯(たむろ)し、閉鎖的同盟を組みするのは避けたいですね。
    そういう意味では、私の短歌は「古典的」であり、「孤立主義」であり、「散文的」なのかもしれません。

    ギータンの「じめじめと」は、「短歌教室」の教師たちが言うように、「焦点」が内容に思えました。この作品に限っては、短歌教室教師達に賛同しないわけには行きません。
    敬愛するギータンだから敢えて酷評しましたが、判って頂けると思います。

    短歌だけでなく「詩」や文学はフォーカスをしっかりロックしないと作品がぼやけてしまいます。そしてそういう作品は記憶に残りにくい。
    読み終わった時は、「そこそこ面白かったんじゃない」と思った作品も、数年経ったら全く忘れていて、初めて読むような気持ちで読んでしまう。
    読書量が多ければ多いほど、忘れてしまう作品も多くなる。
    逆に絶対に忘れない作品もあります。そして、ストーリーが判っていながら再び読みたくなる、そんな作品を作れればと思います。
    SF好きなのに、昔話や文化人類学等に興味を覚えるのは、「聞伝え」の範疇に入るのが誉と思っているのかもしれません。
    とはいえ、現世での賞罰には一切興味がありません。



    今日の一句です。


    鼠空(ねずみぞら)
    杜(もり)の枝葉を
    揺るがして
    雨を乞うのか
    誰の為かや

    解説)空は灰色で丘陵地の樹々が風で揺れている。雲の色が濃いので、枝が揺れる姿は雨を降らそうかとしているようだ。今、何故、雨を降らそうとしているのか。
  • おはようございます。

    先日、「カントウの怪談」を更新しました。
    「軽便鉄道」等、滞っている作品を進める揮発剤になれば、と思って書いたのですが、本命の方はやはり筆が進みません。

    書いてて楽しくない作品は、読んでる方も面白く無いと思うので、これらの作品をどうしようかと思っています。
    特にネット小説にはそういう物が行間や単語間にあるのでしょうね。

    最近はどうも不調です。


    今日の一句です。

    紫や
    白に似たれど
    彩(あや)多き
    雨に競うや
    いみじ紫陽花

    解説)単に紫色や白いものがあると言われているけれど、紫でも赤紫や青紫、白でも純白や緑がかった白など、実に様々な色があり、その美しさを、気の滅入るような梅雨の雨の中で競うように綺麗に咲いている紫陽花は何と素晴らしい花だろう。
  • おはようございます。

    昨日、親しくしてもらっていた知人のおばあちゃんが亡くなりました。
    脳溢血だったそうです。

    優しくて、可愛くて、野鳥や人見知りの野良猫に懐かれる不思議なおばあちゃんだったので残念です。
    私の命と交換できるのなら、命を捧げたいと本気で思っています。

    姪御さんは「平均年齢は越したから」といいますが、数学的に考えれば、普通なら平均年齢より永く生きるのが普通ですので残念でなりません。

    ギータンも忙しそうで大変ですね。無理しないで下さい。


    >>フォーカス
    和歌は写真じゃありませんから、フォーカスが合っているのが絶対に良い、ということはないと思います。それも「流派」の教義なのではないかと思います。
    パズル的な面白さは私も同感です。
    そういう幾何学的な楽しみもあって良いと思います。


    >>鼠空
    自分でも心理的な効果は想定外でした。
    視覚的イメージはギータンの仰る通りです。


    >>カントウの怪談
    ギータン、何を思ったのでしょうか?気になります。

    「梅のき」は「木」を敢えてひらがなにしました。
    梅の木の気持ちを探って頂けたら幸いです。


    紫陽花は私も好きな花です。
    色のバリエーションがグラデーションなのが上品で可憐だと思います。
    チューリップやパンジーなどより、微妙な色合いが日本的ですよね。
    「錦絵」ではグラデーションが見事ですが、この技術は当時の西洋にはなく、西洋人にとって錦絵はトンデモナイ科学技術に見えたようですが、錦絵はそういった「淡い色彩」を大切にしてきた結果だと思います。


    >>紫陽花の
    「薄紫」と云う言葉が、「並ぶ道」の「並ぶ」に掛かり、桃色掛ったり、水色がかったりする色だけではなく緑がかった白い紫陽花の微妙なバリエーションが見えます。
    「海月」と「水無月」は「雨・海・水」という関連性が面白いですね。
    月もMonthではなくMoonを思い起こし、雨なのに広い空間が感じられました。



    嫗(おうな)逝き
    住かも絶えた
    荒野(あれの)には
    蓮華の花が
    一面に咲く

    解説)お婆さんが死んでしまった。お婆さんが住んでた家も無くなり、荒れ地になってしまった。気がつくとその荒地の一面に蓮華の花が咲き誇っていた。
  • またまた、長くなったので、新スレ作りました。

    https://kakuyomu.jp/users/kaz19/news/1177354054889399411

    「ゴー・ゴー・奈々子倶楽部 Regen und Licht im Frühsommer」です。
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