ありがたくも鋭いご指摘を賜りまして、読んで戴いてる実感を噛み締めてる、ご満悦のカワセミです。
第二十話にて、大尼君の営むお邸の経済に言及しました。
そこで、尼寺ってそんな感じ?とご指摘いただきまして、あ、これはきちんとイイワケをせねば、と奮い立った次第です笑
まず、原案としている『我が身にたどる姫君』からの改変についてですが、原作では、尼君が世話する尼僧たち、という記述はなく、完全に私の創作です。
はぁ?(*´Д`)
て、なったらスミマセン…。そうなんです震
さて、「尼寺」ですが、平安時代、尼は寺院にて生活を営むということはまずありませんでした。
『小右記』治安三年 閏九月一九日条に「前帥室去夕依病出家 家尼」とある例が興味深いのですが、出家した女性は、そのまま在宅して「家尼」としていたわけです。
この例を引くまでもなく、平安文学には在宅のまま仏道修行に専心する者が多く描かれています。『我が身にたどる姫君』の尼君もこれに該当します。
この「家尼」のようなシステムになった原因に、国分尼寺の衰退があり、律令制の崩壊と共に国からの援助がなくなったことに起因します。
とはいえ、これは国分尼寺のみならず国分寺も同様なのですが、なぜ、尼僧のみが「家尼」という特殊な形態をとるに至るのか、この研究はあまりなされていないようなので、今後を期待したいところです。
理由の一つと考えるに、「僧」と「尼僧」ではその有り様が異なる点があるように思います。
仏教の変遷において、「女人五障※」の考えが定着していたため、女性の仏道修行は男性とは別のアプローチが必要であって、そのためには女性専門の救済機関である国分尼寺が不可欠だったのではないでしょうか。
もちろん私寺として尼僧院を建立することもできますが、私寺建立の禁令は平安時代を通じて一応は保たれ、勅許が求められることもあり、建立へのハードルは高かったでしょう。
結果として、女性出家者の受け皿が失われたことにより、「家尼」という慣習が定着していった、という流れが、一つあったのではないかと考えます。
え、つまり尼寺はないってこと?
て、思われました?
スミマセン。そのとおりです。
いえ、一応言わせていただくと、確かに「尼寺」の文言は二か所ほど使用しているのですが、お邸が尼寺とは言ってないんですよぉ…。
いえ、ほら平安物って結構自由じゃないですか、エンタメ性高いし。それに、イメージしやすさも重視したというか、だからまーいいかなーと…。
……すみませんでした_(;ω;`」_)_
ですが、一応の根拠としたものがあります。
『源氏物語』宇治十帖の、弁尼・横川僧都母尼・妹尼・ 浮舟の四人です。
母尼は、息子である横川僧都の世話のためですが、妹尼は娘の死に会い出家しています。弁尼は物語進行上必要な人物ですが、そこに浮舟が加わり、尼僧の集団生活の様相を呈しており、これを大きく大きく拡大解釈して、二十話の創作の元とさせていただきました。
国分尼寺そのものは遺構発掘により、地域によっては11世紀くらいまでは存続があったようです。
さて、では還俗した女性の例をみてみますと、やはり、一条帝中宮定子が挙げられると思います。
『栄花物語』浦々の別れでは定子落飾の様子に、「宮は御鋏(はさみ)して御手づから尼にならせ給ぬ」とあり、激情的衝動的な落飾であることが語られています。しかし、その後一条帝に慰留され、再び出仕する様子が続きます。
これが創作の余地を含んでいることは心得なくてはなりませんが、物語に長々と描写される出来事であったことは間違いなく、かつ、この還俗が定子自らの希望であるとは言い切れないことは特筆すべきでしょう。
この還俗についての世間の反応としては、『権記』にて、彰子立后の説得を一条帝にしようと藤原行成が「現在の三后(藤原詮子、藤原遵子、藤原定子)は全て出家していて氏の祭祀を務めることがないのでよくない。ここは彰子を皇后宮に立てるのが適当である」と奏上している記述があり、定子にとって逆風が吹いていたことは想像に難くないでしょう。
また『源氏』に戻りますが、落葉宮が出家を思い立った際、父朱雀帝が諫めようとして書簡に「何人も、夫を持つのは良くないが、後見のない若い人が、尼になって、浮名を立てることは、罪を作ることで、現世も来世も、中途半端で非難されることだ」とあります。
さらに『源氏』から引きますが、浮舟は出家の後、世話になっている横川僧都に「薫の元へ帰るように」と言われて拒否しています。
これらの記述を作者である紫式部が何を想定して描いていたか、もっと言えば、読者に何を想起させることを期待していたかと言えば、やはり、定子を念頭に置いていたと考えるのが自然ではないでしょうか。
この定子の還俗問題は、当時の人々にとって、それほどのインパクトをもって迎え入れられたセンセーショナルな事件だったと考えられます。
そう仮定すると、帝と中宮という高位の人物の間で起きた出来事、という部分を差し置いても、当時の世の中では、女性の還俗が一般的ではなかったことの証左であると言えるのではないでしょうか。
他に、一般に落飾者が「家尼」であったことも、還俗の意味を失わせている要因になるだろうとも考えられます。元の家にいれば当人はそれまでの人間関係、役割を手放す必要がないわけですから、出家にありながら俗の交わりを持つことができるわけで、つまり、実質的に還俗をする必要がなかった、と考えることもできるでしょう。
このように考えていくと、尼僧という存在の世界の中での位置づけ、平安時代においての位置づけの特殊性が見て取れるのではないかと思います。
以上、ファンタジー要素としての拙作と、現実の平安時代の尼僧にまつわるのお話をさせていただきました。
なお、「家尼」についての示唆は、いつかどこかの論文で読んだのですが、資料も探し出せず、参照できませんでした。
ご理解いただけますと幸いです。
余談ですが、横川の尼僧たちみたいな、女性の老後の寄り合い所帯って、昔は憧れました。NHKの「やまと尼寺 精進日記」とか。
実際に年齢重ねていくと、女同士の共同生活も難しいだろうな、と思いますが汗
今回は短くしようと思ったのですが、最長に長くなってしまった…。
もっと簡潔に要点をまとめる術を学んできます汗
長々しいものを、最後まで読んでいただきましてありがとうございました。
いつも拙作をお読みいただき本当にありがとうございます。コメントいただけますとめちゃめちゃ励みになります!
これからも読んでいただけますと嬉しいです。
※女人五障:女性は梵天、帝釈、魔王、転輪聖王(てんりんじょうおう)、仏にはなれないという考え