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ヴァチカンのエクソシスト見た!(長い&ネタバレあり)

ごきげんよう、鹿島です。
夏真っ盛り、どこもかしこもソシャゲは夏イベ真っ最中ですね!
鹿島はいま、今プロットのコンテスト用の大詰めを行っています。

これが終わったらそろそろためてたものの本文を書きたいです……。

それこれとは別に、先日噂の「ヴァチカンのエクソシスト」を見てきました!
ということで、以下、ネタバレ盛りだくさんです。

ヴァチカンのエクソシスト、小説公募勢としてまず思ったのは、ハリウッド式脚本術、いわゆるsave the catの法則にお手本のごとく則ったシナリオでした。
ほんとに、驚くほどにお手本通りで、まったく無駄のない情報の出し方をしていました。

ヴァチカンのエクソシスト、当然タイトル通り1980年代のヴァチカン主席エクソシスト・アモルト神父の物語で、一応ジャンルはホラーなんですけど、ホラーにありがちな最後の最後で「実は悪霊は生き延びて主人公(の傍)に潜んでいて……」みたいな終わり方をしないんですよね。
聖書が書かれ、神と悪魔の戦いがあったころから地の奥深くに200の悪魔が封じられ、と語られてるので確かに悪しきものは主人公の傍に潜んでいるけどそれはメタ的にも明白なことなので別にホラーポイントにならないという。
アクション映画とかバトルもの少年漫画の後味です。

大真面目な話、実際にエクソシズムが始まるとかなりアクションっぽい要素がありますからね。
一番最後の地下決戦のくだりとかもう少年漫画でしたからね。
個人的には悪魔がイエス・キリストその人のような姿で現れるのすっごい趣味が悪くて、しかもその顔で三位一体説を唱えるカトリック信者に「神はいない!」って言うの本当に悪魔的で良かったですよね。

最初にアモルト神父からウイスキーを断ったトーマス神父が決戦後にそれを受け取ることでバディものとしても見ることができます。
若く未熟でどこか臆病でラテン語が読めないトーマス神父がここ一番!の場面ではグッと腹をくくって、悪魔にひるまず(以前自分が言われたように、今度は彼から)アモルト神父に「祈れ! 打ち勝て!」と叫ぶ場面はバディが成立する過程の一番おいしいところでもあり、成長ものとしても良かったですよね。

ストーリーが進むにつれ、陽気で冗談好き喋り好きお茶目で俗っぽい雰囲気すら感じさせる主人公アモルト神父の罪の意識が浮かび上がり、それと同時にかつての中世から近世初期における過酷な異端審問の事実が語られることで、この作品はホラー、アクション、バディ、といった側面だけでなく「ローマ・カトリック総本山ヴァチカンの功罪」を問う物語にもなります。

神秘は薄れ、神の存在を宗教者自身ですら疑うこの時代においてなおも強く神を信じることができるか、という聖職者自身への問い(あるいは苦悩)を描き出します。
ここに、悪魔からの「神はここにいない」の言葉が強く共鳴し、ついにはアモルト神父も悪魔に体を明け渡してしまうのですが……。

(異端審問における拷問はヴァチカン・教会側の罪ではなかったが)宗教的権威によって虐げられた少女がいたと断言することで、ヴァチカンの罪を明確に描き、「お前の罪はお前を見つける」の言葉は宗教者たちの中により大きく響き、深みを増していく。
さらに冒頭における黙示録で赤き龍が「封じられた」ことにまつわる神学上の議論を合わせてみても、この映画は相当真面目な現代におけるカトリックを語る映画、エクソシズム映画として見ることもできます。(ちなみにヨハネの黙示録は短いうえに創作上のアイデアソースにもしやすいので未読の人はいっぺん読んでおくと良いのではないかなと鹿島は思います)

この「宗教側(信仰心)による罪」を描いた、B級に見えるけど実は相当大真面目なカトリック映画エクソシズム映画として「ドント・ヘルプ」という作品もあるのですが、個人的には味わいが増します。
「ドント・ヘルプ」は信仰心を理由にした家庭内虐待の事実を通して神と家族への愛憎を描き、しかしそれでも邪悪なものを前にして我々は怯え心の安寧を求めて神へ祈る……という非常に複雑なものがありました。

ヴァチカンのエクソシストは、当人たちが既に神への愛を第一にしている、というのもあって信仰心を揺らがせながらも年下の若い神父からの呼び声に応えるように悪魔を払っていて激熱でしたね。

中世の異端審問時代の話題が出るあたりは冒険ものっぽい雰囲気もあってワクワクしたし、後半でエクソシズムが始まってからは、ヘンリーに憑依したあたりから、お姉ちゃんに乗り移り、さらにはアモルト神父に乗り移る流れで、2回も「そのシーン見せてくれるの?!」という気持ちになってすごくうれしかったですね。

アモルト神父の赤い靴下と赤いラインのスクーターがすっごくおしゃれで良かったんだけど、あの作品において赤色は「戦場の夜明けの中見た小鳥の赤」であり、「あの時助けられなかった少女の食い殺した小鳥の赤」でもあり、その赤色のものを身に着けてたんだ……と考えてしみじみしています。
神父の罪の意識がそこに克明に表れているようで。

全体的に、神父たちは特別な鍛え抜かれた精神を持っている人ではなくて、ずっと「普通の人」として描かれているのが印象深かったです。
つまり、恋人に司祭をやめると言い切れない臆病さを備えているような。
あるいは、一度の告解で「自分の罪が許された」とは思えないような。

私は告解の価値がよくわかんなくて(人の口に戸は立てられないし、許しを得たかどうかなんて結局誰にもわからないし保証もないのに……と思ってました)だから特に聖職者の人たちは自分とは精神構造が違うんだろうな~って思ってたんですけど。
でもアモルト神父も結局過去に一度告解をして(そういう儀式ですから)赦します、と言ってもらっているのに、その実全然赦された気がしてない、あれからずっと罪の意識にさいなまれている。
そういう意味で、あの告解のシーンでアモルト神父が普通の人として描かれている感じがして、なんとなく良かったな~と思っています。

ホラー映画を見たはずなんですけど、見終わったら爽快バディアクション映画を1本見た気分で、ジャンル間違いか?!と思ったりしました。
創作勢としては、冒頭のシーンのうまさと序盤の展開の素早さがすごく勉強になりました。

ということで、今日はここまで!

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