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愛永久呪~アイトハノロイ~ 第一の呪い・「あなたは何も見ていない」(2)

「片山先輩、どうして……!?」

「どうしてもこうしてもないだろ? お前が酔った小夜ちゃんを連れて店から出ていくのが見えたからよ、怪しいと思ってつけてきたんだ」

 そう話す片山先輩の背後で、タクシーの扉がバタンと閉まる。
 僕が制止する隙もなく走り出したタクシーの中、先輩はニヤニヤと笑いながらこんなことを言ってきた。

「お前もなかなかやるよな。人畜無害なふりして、女の子をお持ち帰りしようとするだなんてよ」

「そんなつもりはないです。僕はただ、八坂さんの具合が悪そうだったから――」

「そういう時は先輩である俺に相談するべきだろ? そうしなかったのは、お前も小夜ちゃんとワンチャン狙ってたからだよなぁ?」

「……お前《《も》》?」

 ニタニタと笑いながら話す片山先輩が何の気なしに発したその一言に、僕は眉をひそめる。
 その反応を見て、少しだけ笑みを引っ込めた先輩が急に黙る中、僕は彼へと言った。

「……八坂さんがこうなったのは、飲んでいたジュースにアルコールが入っていたからです。彼女に飲み物を用意したのはあなたですよね、片山先輩?」

「ああ~、そうだったかな? もしかしたら店員がうっかりしちまったのかも――」

「とぼけるなよ。全部、わかっててやったことなんだろう?」

 今度は僕が詰問する番だった。
 わざとらしくとぼける片山先輩を睨みつけながら、自分でも慣れていないと思いながら……それでも、これ以上八坂さんに変なちょっかいをかけさせないために、僕は彼へと言う。

「僕があの店から八坂さんを連れ出したのは、あなたを信用できないからだ。あなたが八坂さんが酔い潰れたことを知ったら、何をするかわかったもんじゃない」

「……なるほどな。朝倉くんはヒーローを気取っちゃってるってことか。若いねえ」

 喉を鳴らして、僕を嘲るように片山先輩が笑う。
 伏せていた顔を上げた彼は、ねっとりとしたいやらしい笑みを浮かべながら……猫撫で声で僕へと言った。

「なあ、朝倉くん。少し大人になれよ。ここで俺と仲良くしておいた方が、君にとってもいいと思うけど?」

 そう言いながら、視線を僕の背後にいる八坂さんへと向けた片山先輩は、浮かべている笑みに欲望と凶悪さを含ませながら財布を取り出すと、タクシーの運転手さんへと声をかけた。

「運転手さん、ちょっと頼みがあるんだけどさ。俺たちの話、聞かなかったことにしてくれない? あと、ドラレコがあったらその記録も消しといてよ。お礼はするからさ」

 そう言いながら、片山先輩が財布から取り出した万札を料金受け渡し用のトレーの上に無造作に放り投げる。
 信号待ちのタクシーの中、十枚以上はあるであろう一万円札をポンと放り投げた先輩のことを、僕はギョッとしながら見つめていた。

「タクシー運転手なんて、そこまで給料が良いわけじゃないだろ? 別に俺に手を貸せって言ってるんじゃない。あんたは何も見てないふりをすればいい。それだけで、それだけで、その金はあんたのものだ」

「………」

「沈黙は肯定と受け取るぜ。じゃ、契約成立ってことで。ああ、それとクーラー弱くしてもらっていい?」

 運転手さんが何も言わない様を見た先輩が口の端を吊り上げながら笑い、ハンドルから手を放した彼がクーラーを弱めたことを確認してさらにその笑みを強める。
 そうした後、改めて僕へと顔を向けた片山先輩は、自慢気な表情を浮かべながら口を開いた。

「この程度の金、俺にとっちゃ安いもんだ。俺には金もコネも知恵もある。朝倉くんもさ、俺の言うことを聞けば……甘い汁を吸えるよ?」

 ……腐っている。そう、素直に思った。
 多分、これが初めてじゃない。片山先輩は、同じような方法で何度も気に入った女子を酔い潰して、襲っている。

 その犯罪行為を自身が持ち得る全ての力を使ってもみ消しているのだろうと、だからこんなにも醜悪な表情を浮かべられるのだろうと、そう僕は感じた。

「タクシー代は俺が払ってやるからさ、ホテル行こうぜ。結構楽しいもんだよ、3Pってさ」

「………」

「まあ最悪さ、朝倉くんも黙っててくれればいいよ。その分、お小遣いも弾んであげるからさ」

 クックックと喉を鳴らして笑う先輩……いや、この男に、僕は何も答えなかった。
 その代わり、ハンドルを握る運転手さんへと身を乗り出すようにして声をかける。

「運転手さん、行き先を変えてください。近くの病院までお願いします」

「……は?」

 僕の横顔を見つめる片山が、ポカンとした表情を浮かべて声を漏らす。
 少し間を空けて、なるほどといった様子で頷いた彼は、居酒屋で見せた苛立ちを隠そうともしない態度で僕へとこう言ってきた。

「なるほどね。そういう態度を取るんだ? 俺と仲良くするつもりはないってことか……クソが、舐めんなよ?」

 なんとでも言えばいい。ここで八坂さんを差し出すつもりなんて毛頭ないし、こんな下種な真似をする人間と仲良くなるつもりもない。

 今、僕が考えるべきは、八坂さんをこの男の手から守ることだ。
 僕たちが住んでいるマンションがどこなのかバレたら、八坂さんの身にも危険が及ぶ可能性がある。
 その危険を排除するためにも、片山に情報を渡すわけにはいかないと……そう考えた僕の行き先変更の申し出に対して、タクシーの運転手さんは淡々とした声で言う。

「病院、ですね? この時間ですと、開いているのが少し離れたところにある大きな病院しかないんですが……それでもよろしいでしょうか?」

「大丈夫です。よろしくお願いします」

「ちっ……!」

 片山の大きな舌打ちが車内に響く。
 だけど、僕も運転手さんもそんなこと微塵も気にしていなかった。

 ドガッ、と音を響かせながら足を延ばして助手席を蹴った片山は、僕を押し込むように脚や腕を広げてスペースを作ると、忌々し気な声で愚痴る。

「あ~あ、時間を無駄にしちまった! カスが、俺を舐めんじゃねえぞ? 絶対に後悔させてやるからな」

 なんとでも言え、と思いながら僕は片山を無視する。
 明日からの大学生活の中でこいつが何をしてくるかはわからないが、思い通りになって堪るかと反抗心を燃やしながら僕が無視を決め込む中、静かに車を走らせていた運転手さんが口を開いた。

「……お客さん。|助手席《そこ》、蹴らない方がいいですよ」

「はぁ? なんだよ、急に?」

 自身のマナーの悪さを注意された片山であったが、機嫌を損ねている彼は運転手さんのその言葉に素直に従うつもりはないようだ。
 僕を押し退けながら、怒りを燃え上がらせた彼が運転席に向かって吠える。

「てめぇ、何て名前だ? 後でクレーム入れてやるから、覚悟しとけよ?」

「……私の名前は蒲生といいます。そこに名前と顔写真、連絡先が記載されたカードがありますので、クレームを入れたければご自由にどうぞ」

「あ……? 蒲生……?」

 視線をこちらに向けることもせず、淡々とした声でそう答えた運転手さんの態度に、片山が少しだけ怯む。
 教えられた名前をぼそりと繰り返す彼をよそに前方へと視線を向けてみれば、料金表示も兼ねているカーナビのすぐ下に運転手さんの顔写真付きの社員証のようなものが取り付けられている様が目に映った。

(|蒲生利通《がもう としみち》さん……かな?)

 そこに書かれていた彼の名前と顔写真を、心の中で反芻する。
 流石はタクシー運転手というか、片山なんかよりも面倒な酔っ払いの相手もしているから、この程度じゃ動じないんだろうな……と考えていた僕は、視界の上の方でゆらりと揺れる小さな何かに気付き、そちらへと目を向けた。

(なんだ、あの袋……?)

 僕が見たのは、バックミラーからぶら下がる小さな袋だった。
 ピンク色をしている、僕の人差し指くらいの大きさのそれの存在に意識を奪われている僕がぼーっとする中、蒲生さんは静かな声でこんなことを言ってくる。

「車を綺麗に扱ってほしいという意味もありますが……これ、お客さんの安全のために言ってるんですよ」

「はぁ? どういう意味だよ、それ?」

 自分の安全のためだと……そんなよくわからないことを言う蒲生さんへと、片山が目を細めて当然の疑問を投げかける。
 その声にわずかに振り向いた彼は、感情の籠っていない視線を僕たちへと向けながらこう答えた。

「……|助手席《そこ》に、人が乗っているんですよ」

「は……?」

 蒲生さんの答えに、目を点にした僕が助手席を見やる。
 彼はここに人が乗っていると言ったが……どこからどう見ても、助手席に人の姿なんてない。
 何を言っているんだと改めて蒲生さんへと視線を向ければ、ちょうど同じタイミングで片山も彼に向かって嘲笑と呆れが入り混じった言葉を投げかけた。

「おっさん、何言ってんだ? もしかしてあれか? 助手席にはお化けが座ってるから、後ろから蹴ったら祟られちゃいますよ~、ってこと?」

「……はい、そうです。そこには、目には見えない何かが座っているんです」

「馬鹿らしい! 妄想ヤバ過ぎだっつーの! おっさん、一度頭の病院に行っとけよ! ぜってーなんかの病気だからさ!」

 吐き捨てるように、片山が蒲生さんへと言う。
 確かに彼の言う通り、蒲生さんの言っていることは突拍子がないのだが……どうしてだか、僕は片山と同じ考えにはなれなかった。
 冷ややかな目で淡々と語る蒲生さんが、何かの悪ふざけや妄想に憑りつかれてこんなことを言っているとは思えないのだ。

「……私も勤めていた会社が潰れてから十年近くこの仕事をやってるんですがね、そんな話はごまんと聞きますし、実際に出会ったこともあります。信じるか信じないかはお客さん次第ですけどね」

「へぇ? じゃあ今もこの席に誰か座ってるっていうのか? 俺の目には、何も見えねえけどな!」

「………」

 ガンッ、と片山が再び前の座席を蹴り上げた。
 その瞬間、ゾクリとした寒気を感じた僕が蒲生さんを見やれば、無言でハンドルを握り、車を走らせる彼の姿が目に映る。

 青から赤へ、目の前の信号の色が代わり、ゆるゆるとスピードが落ちる中……蒲生さんは、バックミラー越しに僕の目を見つめながらもう一度口を開いた。

「今、お客さんが座っている席ですかね。大体は、そこに座ることが多いです」

「っっ……!?」

 蒲生さんの言葉に、ビクッと体を震わせる。
 片山はそんな僕の反応を嘲笑しながら、呆れた様子で言ってきた。

「おいおい、お前マジで信じてんの? こんなの、人生負け組おっさんの妄想に決まってんじゃねーか」

「……安心してください、お客さん。今はそこに誰も座っていませんし、後部座席に座るお客はまともな方が多いんですよ。鏡に映って自分がここにいることを訴えるくらいで終わり……私やお客さんに危害を加えたりなんかしません」

「……助手席に座るお客さんは、そうじゃないんですか?」

 僕も蒲生さんも、もう片山のことは無視していた。
 理由はわからない。ただ、この話はちゃんと聞いておかなければいけない気がする。

 心臓が早鐘を打ち、全身に冷や汗が流れ、それがクーラーの風に吹かれて寒気を感じさせる中、僕が蒲生さんへとそう問いかければ……彼は車を走らせながら、こう答えた。

「ええ、危ないです。そういう奴らはね、人に近付くことを恐れない。それに、ルールを守るつもりもないですから」

「ルール……?」

「タクシーに乗る時は、基本的に後部座席を利用する……お客さんもそうしたでしょう? そういうルールを守らずにいきなり助手席に乗り込む奴っていうのは、往々にして我がままお客さんなんですよ」

「……運転手さんは、そういうお客さんと出会ったことはあるんですか?」

「……ええ、何度か。危ない目にも遭いました」

 ヴン、というエンジン音が響く。車内の空気が、一段と寒くなったように思える。
 吐いた息が白いもやになっていることを見て取りながら、それでも蒲生さんの話に意識を傾ける僕は、震える声で彼へと尋ねた。

「そういう時って……どうするんですか? なにか、対処法が……?」

「……簡単ですよ。《《無視》》すればいい。気付いていないふりをするんです。さっきそちらのお客さんが言ったように、何も見ていないことにする……それが一番の対処法です」

 蒲生さんの声が弾んだように聞こえたのは、僕の気のせいではないはずだ。
 こんな荒唐無稽な話を続ける彼は、どうしてだかどんどん楽しそうな雰囲気を纏い始めている。
 だけど……鏡越しに合う蒲生さんの瞳には感情がなくて、わずかに見える表情からも何を考えているかが読み取れなくて、それがとても不気味に感じられた。

「……安心してください。こんな話をしましたが、このお守りがあれば大丈夫です」

 ピリピリとした緊張感が寒気と共に高まる中、不意に蒲生さんがそんなことを言いながらバックミラーから吊り下げられている小袋を取った。
 ピンク色のそれへと視線を向ける僕へと、彼は少しだけ温もりをにじませた声で言う。

「娘がね、わざわざ私のために用意してくれたんですよ。こいつのおかげで助手席に乗り込んでくるようなお客さんはいなくなりました。だから、安心してください。お客さんは大丈夫です」

「……!」

 鏡に映る蒲生さんの目が、静かに歪んだ。
 多分、笑みを浮かべたのだろう。だけど、どうしてだか……暖かい声を聞いて、その笑みを見ても、欠片も安心できないでいる。

(お守りのおかげで助手席に乗り込む客はいなくなったと蒲生さんは言った。だったら、さっきの警告はなんだったんだ……?)

 無言で視線を助手席へと向けた僕は、蒲生さんの言動の矛盾に気付くと共に息を飲む。
 この席に誰も座っていないというのなら、安心していいと言うのなら、どうして先ほど、助手席を蹴り上げた片山のことを注意したのだろうか?

 何かが変だ。異様な雰囲気も、冷や汗も止まらない。体を震わせる寒気が、どんどん強くなっている。
 緊張気味に喉を震わせて吸い込んだ空気が、肺を凍らせるくらいに冷たくなっていることに驚いた僕が目を見開く中、ここまで黙っていた片山が唐突に口を開いた。

「はっっ! 馬鹿話は終わったか? 意味わかんね~話をぐだぐだ続けんじゃねえよ、カス!!」

 ガツンッ、と暴言を吐き捨てながら足を伸ばした片山が助手席を蹴る。
 忌々し気な表情を浮かべた彼は、吐く息が白いもやになっていることに気付いて顔を顰めると、蒲生さんへと怒鳴り付けるように言った。

「おい! さっき冷房弱くしろって言ったよな? 逆に強くなってんじゃねえか! 底辺職の人間はそんなこともできねえのかよ? 使えねえな!!」

「……すみません、ね」

「謝ってる暇があったらとっとと冷房を切れって! 寒過ぎんだよ、このタクシー!」

 僕が感じているものと同じ寒気を、片山も感じているようだ。
 怒鳴り散らす彼に謝罪した蒲生さんは、続く彼の言葉にも一切動じることなく……こう、答える。

「すみません、それはできないんです。もうとっくに、冷房は切ってますから」

「……え?」

 とんとん、と指で風の噴射口を突きながらの蒲生さんの言葉で、僕も気付いた。
 このタクシーのエアコンは、もうずっと前から止まっている。駆動音も、さっきから全く聞こえていなかった。

 じゃあ、この寒気はなんだ? 車内を満たすこの異様な寒気の正体はいったいなんだというんだ?
 
「お、おい……降ろせ! 今すぐ俺を降ろせ!!」

「……すみません。それもできないんですよ。残念ながら、ね……」

 タクシー内を満たす寒気に、緊張感に、異様な雰囲気に、片山は一気に余裕を失って半狂乱になって叫んだ。
 しかし、蒲生さんはどこまでも冷静で、静かで、淡々としていて……そんな彼の様子を見ていた僕は、今、このタクシーの周囲に人の気配が全くないことに気付く。
 ついさっきまで人気の多い街の中を走っていたというのに……タクシーは今、街頭一つない暗い道に停車していた。

(ここはどこだ? いつこんな道に迷い込んだ? 何がどうなってる?)

 疑問が頭の中を埋め尽くす。同時に、本能がけたたましいくらいに警鐘を鳴らす。
 何か……何かがマズい。そう、僕が考えるよりも早くに感じ取った瞬間、蒲生さんが口を開いた。

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