――俺は、人を呪うことができる。
ただ恨み、憎むって意味じゃない。相手に不幸を与えることができる、正真正銘の呪いだ。
この力に気付いたのは、中学一年生の時だった。
担任のクソ教師がテスト中にちょっとカンニングをしただけの俺を、クラスの全員の前で怒鳴りつけやがった。
おかげで俺はクラスメイトたちから笑われ、後ろ指をさされ、奇異の目で見られるようになった。
誰も俺に近付かなくなって、遠巻きに接されるようになって……こうなったのも全部、あのクソ教師のせいだ。
俺は本気であいつを憎んだ。不幸になれと心の底から呪った。
クソ教師が交通事故に遭ったと聞いたのは、その数日後のことだ。
ざまあみろと、俺に恥を掻かせたからこうなったんだと、大喜びした俺だったが……それから、似たようなことが何度も起きるようになった。
俺に真っ赤なトマトジュースをぶっかけてきた同級生の男子を呪えば、そいつは他校の不良にボコられて血まみれになり、入院する羽目になった。
たかだか数百円程度の商品を万引きしたことをネチネチと説教してきたコンビニの店長は、強盗に遭ってレジの金を丸々持っていかれた。
他にもたくさん、俺に嫌な思いをさせた連中がそれ以上の不幸に見舞われたって例がある。
全部ただの偶然だと思うかもしれないが、それは絶対に違う。
何故なら、俺がこんなふうになれと思ったことが、呪った相手に実際に起きるからだ。
俺は人を呪える。特別な力がある。だけどもちろん、この秘密を誰にも明かすつもりなんてない。
言ったとしても誰も信じないだろうし、わざわざ明かす必要もないだろう。
ただ……俺が持つ呪いの力に気付いた奴がいる。
高校三年生の時に同じクラスになった、|八坂小夜《やつざか さよ》という女子がそれだ。
とびきりの美人で、胸も大きくて、手も足もすらっとしてて……だけど、長い黒髪と血の色みたいな赤い目が不気味な、近付きにくい女子。
ただ、それでもぼっちの俺とは違って人との付き合いはしっかりしてるみたいで、なんだかんだ友達も多いみたいだった。
ある日のこと、その八坂小夜が教室で一人きりの俺に声をかけてきた。
クラスどころか学校でも随一の美人に声をかけられたことに驚いた俺だが、それ以上に驚いたのはあいつの口から飛び出してきたその言葉だ。
開口一番、八坂は俺にこう言ってきやがった。
「あなた、四宮さんを呪ったでしょ?」
その言葉を聞いた瞬間、俺はぎょっとした。
八坂が口にしたことに、覚えがあったからだ。
|四宮《しのみや》まひる……俺が少し前に呪った女の名前だ。
明るくて、かわいくて、クラスの人気者。俺も少ししゃべったことがある、クラスメイトの女子。
その四宮に、俺は告白した。そして……フラれた。
『ごめん。私、他に好きな人がいるから……』
四宮にそう言われて断られた俺は、深く深く傷付き、絶望した。
俺とあんなに楽しそうに話していたっていうのに、俺以外の男が好きだなんて、裏切り以外のなんでもない。
だから……呪ったんだ。その恋が一生叶わなくなっちまえって。
そうしたら四宮の奴、事故で顔に大きな傷ができちまった。
自分の顔面に残るグロテスクなその傷を見た四宮は明るかった頃の面影が嘘みたいに暗くなって、家に引きこもるようになった……ってわけだ。
心の底から、ざまあみろって思ったね。思わせぶりな態度で俺をその気にして、挙句に絶望のどん底に叩き落したからこうなったんだ。
だけど、まだ甘い。俺が負った心の傷は、あいつの顔面の傷なんかよりももっと大きくて深いんだ。
そう思っていた矢先に八坂にそんなことを言われた俺は、心臓がひっくり返るんじゃないかってくらいに驚いた。
目を大きく見開いたまま、何を言えばいいのかわからずにいる俺に冷たい目線を向けながら、八坂が淡々とした口調で言う。
「……もう、誰かを呪ったりしない方がいいわ。あなたの願いは叶うけど、あなたの思い通りにはならないから」
「は……?」
「忠告はしたからね……|夕陽辰彦《ゆうひ たつひこ》くん。素直に聞き入れた方があなたのためよ」
それだけ言って、八坂は俺から離れていった。
一人残された俺は、完全に八坂が見えなくなってからようやく声を出す。
「な、なんだったんだ、あいつ……? どうして俺の力のことを……?」
八坂が俺の呪いの力を知っていることは驚いた。どうしてあいつは、俺の秘密に気付いたんだろう?
もしかして、あいつも俺と同じ力を持っているのか? 俺が知らないだけで、似たような力を持つ人間は大勢いるのかも……?
(……面白そうだな、それ。漫画みたいじゃん)
そこまで考えた俺は、教室でニヤリと笑みを浮かべた。
特別な呪いの力を持つ人間同士が出会い、物語が始まるだなんて、少年漫画の王道ストーリーみたいだ。
ということは、俺が主人公でヒロインは八坂……ということになるのだろうか?
あいつがヒロインなら申し分ない。本当はもっと愛嬌のある、俺のことが大好きな女子が良かったけど……まあ、合格点ってところだろう。
忠告だか警告だか知らないが、俺はこの力を封印するつもりなんてない。
これからも俺をムカつかせた奴をこの力で不幸にする。それが、特別な力を得た俺に許された特権ってやつだから。
八坂と話をした後も、俺の意思は変わらなかった。
そして……それから数日後、俺は次のターゲットを見つけることになる。
「まひる! まひるじゃん!!」
「あ、うん……その、久しぶり」
その日の朝、教室はにわかに騒ぎ立っていた。
本当に久しぶりに、四宮まひるが登校してきたからだ。
四宮と仲が良かった女子たちは、泣いてるんだか笑っているんだかわからない顔になってあいつを囲んだ。
そんな女子たちに対して、四宮はぎこちない笑みを浮かべている。
前髪で顔の傷を隠している四宮のことを気遣いながらも、女子たちは久しぶりに会えた彼女へと次々に質問を投げかけていった。
「もう大丈夫なの? 色々あったって聞いたけど……」
「うん、なんとかね。いつまでも引き籠ってるわけにはいかないから」
「無理してない? 私たちにできることがあったら、なんでも言ってね」
「ありがとう。本当にありがとうね……」
そういうふうに、お涙ちょうだいのやり取りを繰り広げる女子たちのことを、俺は冷めた目で見ていた。
折角呪ったっていうのに、四宮が思い通りにならないことに苛立つ俺の耳に、さらに腹の立つ話が聞こえてくる。
「こんなこと聞くのはあれかもしれないけどさ……どうして今日、学校に来ようと思えたの?」
核心に踏み入るような女子の質問に、一瞬教室が静まり返った。
その質問に対して、四宮は顔を少しだけ赤らめると……こう答える。
「新一くんが励ましてくれたから……頑張ろうって思えたんだ」
小さかったが、その声は静まり返った教室によく響いた。
四宮の答えに一気にクラスメイトたちが湧き立ち、これまで話に参加していなかった連中までもが加わりつつ、口々にこんなことを言い始める。
「そっか、やっぱりあいつか~! いい奴だもんな!」
「持つべきものは幼馴染ってことだね! うんうん、良かった!」
「新一の奴も色々頑張ってたし、四宮さんが元気になって喜んでるだろうな! 後でからかいに行ってやろう!」
「良かったね、まひる。本当に良かった……!!」
……そうやって騒ぐ連中が言う、《《新一》》ってやつのことは俺も少しだけ知ってる。
隣のクラスの奴で、四宮の幼馴染で……四宮が好きな男子だって話だ。
父親を早くに亡くし、母親と兄弟と支え合いながら暮らしてて、しかも成績優秀で非の打ち所がないいい奴らしい。
本当に……腹が立つ。そんな奴のこと、好きになれるわけがない。
その新一さえいなければ、俺が四宮と付き合えていた。あいつさえいなければ、四宮が立ち直ることだってなかった。
本気で邪魔だ、その新一って奴が。憎い、腹立たしい、死ねばいい。消えてしまえばいいと思う。
……だから、消すことにした。いつも通り、呪いの力を使って。
俺は今まで、他人を呪って傷付けることはあっても、殺しまではしなかった。だが、それも今日で終わりだ。
生まれて初めて、俺は人を呪い殺す。だったら、思いっきり派手にやってしまおう。
新一も、あいつが大事に想っているであろう家族も、一緒に殺す……その方法を頭の中で思い浮かべ、心の底からの憎しみを奴に送り、そして――!
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―――――――――――――――
「キヒヒヒヒヒッ! クハッ! クハハハハハハッ!!」
――数日後、俺は人気のない夜道を歩きながら、声を殺して笑っていた。
その背後では大きな炎が燃え盛り、おんぼろアパートを焼き尽くしている。
あのアパートは、新一が住んでいる場所だ。集まっている野次馬によれば、中の連中の生存は絶望的らしい。
また思い通りになった。俺の望み通り、新一とその家族を焼き殺してやるという呪いが天に届いたんだ。
「ざまあみろ。調子に乗るからこうなるんだ……!!」
顔が良くて、性格も良くて、勉強もスポーツも万能で、女にモテるからってなんだ。そんなことで調子に乗るな。
俺にはこの力がある。人を呪えるこの力さえあれば、どんな奴だってこんなふうに殺すことができる。
自分を支えてくれた恩人を、好きな相手を喪った四宮は、これで一層絶望することになる。
一度這い上がれる希望を見せてから再び絶望に蹴り落されたら、もう二度と立ち上がることなんてできないだろう。
でも、まだだ。まだまだだ。俺が味わった絶望はこんなものじゃない。
もっと、もっともっともっと……あいつに教えてやる。俺がお前のせいで、どんなに苦しんだかを。
とりあえず、明日の学校が楽しみだ。四宮はまた引き籠るだろうが、一緒になって騒いでたクラスメイトたちの沈んだ顔を見れる。
期待に胸を躍らせながら、俺は燃えるアパートを背に、自宅へと帰っていった。
明日はきっと、最高の一日になる。そんな確信を抱いていた俺だったが、翌日登校した俺の目の前に広がったのは、予想だにしなかった光景だった。
「本当に良かった……! マジで、話を聞いた時は心臓が止まるかと思ったぜ」
「ご自宅が燃えちゃったのは残念だけど、命あっての物種よね」
「新一が無事で本っ当に良かったよ!」
(嘘だろ……? なんであいつ、生きてるんだよ!?)
翌朝、登校した俺は、クラスで昨晩の火事が話題になっていることを確認し、心の中でほくそ笑んだ。
邪魔な新一が死んだことを再確認し、これで四宮が一層絶望すると思った俺だが……その耳に、信じられない話が聞こえてくる。
「でも、死者が出なくて良かったわね」
「本当にね。確か、緊急で設備点検の業者を入れるとかで、アパートの人たち全員が出払ってたんでしょ?」
「は……?」
死者が、ゼロ? あのアパートには、誰もいなかった?
聞こえてきた女子たちの会話に居ても立っても居られなくなった俺は、隣のクラスへと向かい……扉越しに中を確認する。
そうすれば、多くのクラスメイトたちに囲まれている新一の姿が目に入り、あり得ない現実に俺はハッと息を飲んだ。
「色々と運が良かったよ。実は、あのアパートから引っ越すことになっててさ、荷物もほとんど運び終わってたんだ。昨日は家族で一緒に外食してたから、帰って家が燃えてる時は本当にびっくりしたよ」
「びっくりしたのはこっちだって! 今朝、ニュースを見て、目玉が飛び出たっつーの!」
「それで新一くんは大丈夫かって話をしてたら、その本人が普通に登校してくるんだもん。幽霊が出たかと思ったわよ」
「あはは、ごめんごめん。でも、ニュースを見たら犠牲者は出なかったって報道も見たんじゃないの?」
「こっちの身にもなれよ! クラスメイトの家が大火事になったって話を聞いたら、冷静になんかなれねえよ!! ったく、お前はそういうとぼけたところがあるよなぁ……!!」
ははは、と新一を含む隣のクラスの連中の笑い声が響く。
その光景を茫然としながら見つめていた俺は、扉を一枚隔てただけの距離にある教室が、途方もなく遠くにあるように感じられていた。
(なんでだよ……? どうして、呪いの通りに死なねえんだよ!?)
俺の呪いは絶対だ。今まで、失敗したことなんてない。
気に食わない教師も、クラスメイトも、コンビニの店長も、四宮まひるだって……全員、俺が呪った通りに不幸に見舞われた。
それなのにどうして、新一は死なない? あいつもあいつの家族も、呪いを回避できた?
初めての失敗……それも、殺すつもりで本気で呪った相手を呪殺できなかったという大きな失敗に、俺の心がぐらぐらと激しく揺れる。
ただただ愕然としながら立ち尽くしていた俺は、視線の先にいる新一へと一人の女子が駆け寄っていく様を目にして、瞳を大きく見開いた。
「新一くんっ!」
「まっ、まひる!? えっ、ちょっ……!?」
涙目になって、息を切らして教室へと飛び込んできた四宮まひるが、新一の姿を見るや否や、勢いよく抱き着いた。
クラスメイトたちの前で幼馴染に抱き着かれた新一があせる中、四宮は涙の滲んだ声で言う。
「良かった……! 本当に、良かった……!! 新一くんが死んじゃったんじゃないかって、心配で心配で……!!」
「ご、ごめん……! 色々慌ただしくって、連絡できなかったんだ」
「ううん、いいの。新一くんが無事なら、生きていてくれれば、それでいい……!」
――反吐が出そうになるほどに、最悪の光景だった。
告白した相手が、他の男に抱き着いて涙ながらにその無事を喜ぶ。それだけでも最悪なのに、それ以下の事実がそこにある。
四宮も、新一も……目の前にいる相手のことを心の底から大切に思っていることが、わかってしまった。
《《愛し合っている》》、ということなのだろう。吐き気を催すほどに陳腐で気色悪い言い方だが、それが一番合っている。
折角、俺が呪ったのに。俺を振った四宮を絶望のどん底に叩き落してやったと思ったのに……新一のせいで、その呪いも効力を失ってしまった。
認めたくない、絶対に認めたくないが……現実は、残酷な事実を俺に突き付けてくる。
お前は新一に敗北したのだと……どこまでも冷たい現実は、俺にそう告げていた。
「ふざけんな。ふざけんなふざけんなふざけんなっ!!」
放課後、誰もいなくなった教室の中で、俺は屈辱に震えていた。
呪いから逃れ、幸せそうに四宮と過ごす新一の姿を見せつけられた俺は、湧き上がる怒りと憎しみに狂いそうになっている。
何も問題はなかったはずだ。今まで通り、強く念じて新一の不幸を願った。
それでいつもは上手くいっていた、問題なかった。なのに、どうして今回だけ失敗したんだと考えたところで、少し前に八坂小夜から言われた言葉がフラッシュバックする。
『……もう、誰かを呪ったりしない方がいいわ。あなたの願いは叶うけど、あなたの思い通りにはならないから』
「願いは叶うけど、思い通りにならない……まさか、このことを……!?」
新一を呪い、奴の家を火事にするという願いは叶った。
しかし、新一は死なず、この事件を切っ掛けに四宮とより親密な関係になりつつある。
八坂に言われた通りだ。俺が思い描いた、四宮が不幸になる未来は訪れなかった。それどころか、あいつにかけた呪いも解かれつつある。
まさか、八坂はこうなることを予知していたというのだろうか? 俺の呪いが失敗するということを、知っていた?
そもそもどうしてあいつは俺の力を知っている? なんでだ? どうしてだ?
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
頭の中で疑問が渦巻く。同じ悩みが、迷いが、終わることなくループし続ける。
混乱に、絶望に、苦しみに、屈辱に……俺は吠えた。ここが学校であることも忘れ、大声で叫んだ。
そして……今、自分が何をすべきかを理解し、顔を上げる。
「……関係、あるか。そうだ、何もまだ終わっちゃいない。一度の失敗がなんだっていうんだ……!」
確かに俺は失敗した。新一を殺せなかった。しかし……それがなんだ?
新一は生きているが、俺も生きている。だったら、また呪えばいい。あいつが死ぬまで呪い続ければいいだけの話だ。
俺は選ばれた人間だ。他とは違う特別な存在だ。だから、他人を自由にできる特権がある。
この呪いの力がある限り、最後に笑うのは俺なんだ。
「新一は、殺す……! いや、殺すなんて生温い。死ぬよりもつらい目に遭わせて、生き地獄を味わわせてやる……!!」
皮肉なことに、一度呪いを失敗したおかげで、新一への憎しみは十分過ぎるくらいに高まっている。
一瞬で楽に死なせるような呪いはかけない。方法なんてなんだっていい。あいつが一生苦しみに喘ぐような、そんな呪いをかけてやる。
怒りを、憎しみを、嫉妬を、持ち合わせる負の感情全てを注ぎ込んだ俺は、心の中で強く念じた。
『新一が、一生苦しみ続けますように』……そう、人生で最大の呪いをかけた俺が目を閉じながらほくそ笑んだ、その時だった。
「……やっぱり、そうだ」
「え……?」
静かな……とても静かな声が、教室に響いた。
その声に驚いて目を開けた俺は、教室の入り口に立つ四宮まひるの姿を捉え、息を飲む。
新一を呪う姿を、まさか四宮に見られるだなんて……と、焦る俺であったが、別に慌てる必要なんてないことに気が付いた。
呪いなんてものの証明ができるはずがない。仮にここで俺が新一に対する呪詛を呟いていたとしても、そしてこの後で奴の身に不幸が降りかかったとしても、誰も何の因果関係を証明することもできないのだから。
そう、自分に言い聞かせて、俺は落ち着こうとした。
しかし……俺のことを見つめる四宮の姿を目にして、ゾワリとした寒気を覚え、緊張に心臓の鼓動を跳ね上げてしまう。
「な、なんだよ? 俺に何か用があるのか?」
「やっぱり、そうだったんだ。あなたが、あなたは……」
精一杯の虚勢を張りながら声をかけても、四宮は俺の声なんてまるで耳に入っていないように何かを呟いているだけだ。
ただ、確かにその両目は俺を捉えていて……自分が見られていると再認識した俺の背筋に、氷のように冷たい何かが走る。
「……大丈夫。もう、私はいいの。だから、だから……ね」
「ま、待て。なんだ、なんだよ? 来るなって! おいっ!!」
ぶつぶつとうわ言を呟きながら、それでいてその両目に俺を捉え続けながら、四宮が近付いてくる。
狂気に満ちたその姿に、浮かべている笑みに、心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じた俺は、四宮の手に大きな裁ち挟が握られている様を見て、震え上がった。
「くっ、来るなっ! 来ないでくれっ! やめろっ! だ、誰かっ! 助け――っ!!」
膨れ上がった恐怖が爆発を起こし、俺はパニックになる。
半狂乱になって叫び、助けを求めるも、四宮はそんな俺の反応に一切動じることなく距離を詰めてきた。
「幸せだったよ……心の底から、本心から、そう思えるのは、あなたが居てくれたからだよ……」
「ひぃ……ひぃぃぃ……」
ゆっくりと、四宮が鋏を振り上げる。その動きに合わせて、前髪に隠れていた顔の半分が露わになる。
俺がかけた呪いによって刻まれた、グロテスクな傷。焼けているような、抉られているような、もう消えることだけはないんだろうなと一目でわかる大きなその傷を歪ませながら、四宮が笑う。
「大好きだよ。誰よりも愛してる。だからね、新一くん。だから、ね――」
四宮は俺を見ていた。その瞳の中に俺の姿を映していた。
恐怖で立つこともできず、壁に背を預けてへたり込んだままの情けない自分自身の姿をそこでようやく目にした俺は、絞り出すように息を吐きながら目の前の《《狂気》》を見やる。
目の前にいるそれは、四宮まひるではなかった。
彼女の形をした、狂気の塊だった。
その狂気の塊が、何よりも恐ろしい存在が、無機質に俺を見つめながら握り締めた鋏を振り下ろす。
その瞬間、俺は確かに聞いたのだ。絶望と恐怖に満ちた俺の悲鳴が響く寸前、裁ち鋏が血に塗れるその直前に、四宮まひるの形をした狂気が発した言葉を。
俺が最期に聞いた彼女の言葉は、ここにはいない愛する男に向けてのものだった。
ただ淡々と、まるで読み終えた本を閉じるような気軽さで、俺に向けて鋏を振り下ろしながら……四宮まひるは、狂った笑みを浮かべて言っていた。
「アなタは、私ガ守ルかラ」
新一くんへ
突然、こんなメッセージを送ってごめんなさい。でも、今、どうしても伝えなくちゃいけないことがあって、これを書いています。
多分、きっと、絶対に……新一くんがこのメールを読んでいる頃には、全てが終わっているでしょう。
驚かせちゃったと思う。怖がらせたかもしれない。そんな中でも、新一くんが悲しんでくれていたら……最低だとはわかっているけど、嬉しいなって私は思います。
あなたの幼馴染として生きた十八年間。このメッセージを書いている今、この瞬間だって、私は幸せでした。
物心ついた時から傍に居て、お父さんを亡くした時にわんわん泣いて、それでも「これからは僕が母さんと弟たちを守るんだ」って一生懸命に頑張って、大きく立派になっていくあなたの姿を誰よりも近くで見続けられたことは、何よりの誇りです。
実はね……新一くんと結婚して、家族になれたらいいなって、そう思ってたんだよ。
新一くんがどう思ってたかはわからないけど、あなたと家族になって、子供も産んで、一緒に幸せになれたらいいなって……大好きなあなたと、一緒にこれからの人生を歩んでいけたらいいなって、そう思ってた。
……でもね、もういいんだ。叶わない夢だって、自分でもわかってるから。
こんなに気持ち悪い傷を負った女、あなたに相応しくないもん。
優しい新一くんはそんなの気にしないって言うだろうけど、私が苦しくてつらいから……もう、傍には居られないんだ。
それでも、本当は嬉しかった。新一くんが事故の後で引き籠りになった私をずっと気にかけて、毎日訪ねてきてくれて、本当に嬉しかったよ。
あなたのおかげで、もう一度学校に行こうって思えた。あなたのおかげで、死にたい死にたいって思い続けた日々から抜け出せた。
私が今、感じている幸せは、全部あなたがくれたもの。
だからね……私、決めたんだ。新一くんが幸せになれるなら、なんでもしようって。それが、私にできる唯一の恩返しだって、そう思ったから。
……新一くんが信じてくれるかどうかはわからない。でも、ちゃんと伝えておく必要があると思うから、ここに書くね。
あの日、新一くんが住んでいるアパートが火事になった、あの日の夜……私、見たんだ。
現場に来ていた夕陽くんが、その場から立ち去りながら笑っている姿を。
絶対に、間違いない。あの火事は、夕陽くんが仕組んだものだ。
夕陽くんは、新一くんを殺そうとしてるんだって……そう、思った。
だから殺したの。新一くんの幸せを壊そうとする彼を、そのままにはしておけなかったから。
でも、まだ終わりじゃない。私は責任を持って、最後まで彼に付き合うつもり。
本当にごめんね。こんなこと言われても困るだけだよね。
でも、でもね……最期にあなたに伝えたかったの、私が何を思って、誰を愛していたのかを、あなたに知ってほしかった。
ありがとう。そして、さよなら。
あなたのことを、ずっと想ってる。でも、あなたは私のことなんて忘れて。
それが私の、最後の願いだから。
誰よりも、何よりも、大好きでした。どうかあなたが、幸せな人生を送れますように。
あなたの幼馴染だった、四宮まひるより