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戦闘に耐えうる精神力

 リアルな戦争映画や体験談をまとめた漫画を読んでいると、つくづく「人間ほど戦闘に不向きな生物はいない」ということを思います。

 以前聞いた話では全人類の中で殺人に抵抗を持たないのは全体の0.2パーセントほどとされるらしく(2パーセントだったかもしれないがそれでもごく僅かである)、たった一度の戦闘でも経験すれば大抵は精神に異常をきたします。
 まして現代の戦いであれ古代の戦いであれ、ライフル弾の一発でも貰えば即死、もしくは腕が吹っ飛びますし、剣で斬られれば体を動かせません。映画じゃないんですから、腕一本使えないだけでほぼ負けは確定です(一対一の状況なら)

 こう思うとバトル小説を書いている身としてはだいぶ異常なことをキャラたちにさせてるんだな、と。
 もちろん彼らは卓越した能力を持つ退魔師という超人、妖怪たちですが、そこに(異常な日常を送る彼らの生活に)意義や意味を見出すのって本当に大変だな、と。

 先人たちはこの無理難題にどう立ち向かったのか……それは実際に今血肉になっている作品から感じていくことしかできませんが、同じように「戦うことの意義をキャラに与える意味」について深く考えている方がいたら意見をいただきたいです。


 私に圧倒的に多いのは過去との訣別(親子の確執や復讐心、怒り、悲しみとの清算)などですね。
 前向きというか後ろ向きなものが多いですが、多分これは私自身が過去に縛られている反動かな、と。

 ゴヲスト・パレヱドでは過去だけでなく、未来に向けて戦っていく場面も与えられたらいいなと思っています。

2件のコメント

  •  これは私の持論になりますが、ヒトだけでは無くて動物も実はそんなに「闘いを好まない」存在だと常々感じています。
     もちろん、動物も攻撃の手段を取る事はあるにはあります。しかし実際に事を起こす前に威嚇などのデモンストレーションも多用しますし、同種同士の闘いでは儀礼的な物で終わる事も往々にしてあるそうです。
     そもそも闘うとなると負ければ相当なハンデを得る事もあるので、切羽詰まらないと動物も闘わないんだろうなって思っているほどです。
    ※有名な話かもしれませんが、ゴリラのドラミングも威嚇ではないという話もあります。むしろゴリラって戦闘が苦手で豹に斃される事もあると言いますし。

     なのでそうした事が前提にあるために、拙作の妖怪たちって殆ど闘わないんですよね。萩尾丸先輩とかも闘いの前段階で事を収める事がほとんどですし。
     それ以前に、私自身も喧嘩や暴力に縁遠い暮らしを送っており(何せひ弱な文学青年だったので)、闘いや暴力は非常事態という認識があるからかもしれないです。
     源吾郎君も実のところ、「最強を目指す・強さを知らしめたい」という割にはあんまり闘わないですからね。彼の場合、明確な殺意・憎悪・憤怒を伴わなければ暴力を伴った闘いに踏み切れない感じです。

     長文失礼しました。しかも闘う意義どころか、闘わない話ばっかり書いているという話ですし……
  •  そういえば狐の威嚇(に見える怒鳴り合い)も口の大きさや牙の形で優劣を決め嫌いな相手を遠ざける同種間のコミュニケーションの一種ですもんね。
     オスメスの奪い合いも直裁的な攻撃でオス同士潰し合うというよりはダンスや歌で気を引いた方が勝ちというケースが圧倒的に多いですし、確かに野生下でも戦闘というのは異常かつ非常の手段なのだなあと実感しました。

     なまじ人間には感情なんて機能があるせいで身体的なシステムとして敵を排除したと切り捨てることができないんですよね。感情的になってその場しのぎに戦うモードにはなれても絶対に後悔しますし。どんなに憎んでいる相手であれ、罪悪感は感じますからね。

     私自身は小中学生、あとは高校時代には一回きりですが喧嘩ばかりだったので比較的そのときの心理状態を体感的に知ってます。喧嘩を売られる不快感も、煽ってる最中の収まらない感じも知ってて、時々書いてて生々しいくらいに感情が湧いてきて焦ることもあります。
     燈真君が攻撃性を保ちつつ専守防衛に徹するのは私自身の経験と後悔から来てるのかもしれません。

     むしろ文芸的な作品としては闘わない話の方が合ってるんですよね……大半の人間は(現在の私も含め)喧嘩なんて嫌ですし……。


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