「うい」と聞けば思い出す。
有為の奥山今日越えて・・・
いろは歌だ。
【有為の奥山】
うゐ・の・おくやま
この世が無常であることを、道もなく越えにくい深山にたとえた言葉。「いろは歌」の一節。
(資料Weblio)
「有為」は仏教用語で
「様々な因縁で生じた現象」や存在を指している。
「絶えず生滅し無常である」と説明されているが、「ういの奥山」がそうした場所であるという解釈は、もちろん「いろは歌」が意図するものではない。
「宇井」は姓名にもある。
「羽衣」も「うい」。
雨の気配や人生の疲れ(憂い)など、多くの意味が重なってしまうが、後ろにこの言葉がある。
→ 今日越えて
例えば、宇宙の井戸の水を一杯飲めば、「今日(こんにち)の憂いを超える」という示唆もある。
「奥山」は、宗教的な奥義を連想させており、登りたい山だ。
いろは歌は、なぜここまで深い意味を込める事が出来たのだろう?
それは、「ロゴス(言葉)」と呼ばれる創造主の右位の存在が、監修しているからではないだろうか?
つまり、
「終わりの日への準備」として
・・・
私には、そう思えてならない。