「嘘にならない嘘」で考えたのは、「霊魂」の概念だった。
その延長から「復活の概念」も考える事になった。
二枚目が涼しい顔で座っていられるのは、人々が持つ「復活の概念」が関係している。
復活は→ 姿が変わるのか?
言い換えれば「DNA」が無視されるのか?
イエスの霊魂が(DNAを無視した)借りの肉体に宿って現れるという考えが、二枚目イエスを「肯定」する概念となっている。
トマスは、その「仮の肉体」に触れて傷跡を確かめた。
傷跡はあったが、姿は違う。
他方、モルモンの民の上に下って来たイエスは、どんな姿であったか確かめる方法はない。
しかし私は、「同じ姿」「同じ顔貌」であっただろうと考えている。
それはつまり、
人類が経験する「復活」は、「DNA」が無視されない同じ姿で起きるという意味だ。
記憶だけが投入された「まるで他人の顔」が復活して来たとすれば、受け入れる社会は大きく混乱するだろう。
「あなたは誰?」
「山田太郎だ」
「証明できるの?」
「信用しろ」
こんな会話が各所で聞かれるだろう。
当人の記憶と共に、「DNA」も同一でなければ成り済ましも可能になってしまうだろう。
復活の信頼性にこうした疑問が生じる事態を、創造主が許すだろうか?
神の閻魔帳には、「DNA」が抜け落ちているのだろうか?
考えられない。
だから、「二枚目を保護していた概念」は、「DNAの無視」であり、これが「虫による枯らし」ではないかと気付いたのだった。
その「ムシ」(バグ)は、魚の腹から出たヨナの致命傷となるだろう。
人類の心を無視して続けて来た欺瞞のプログラムは、壊滅の大クラッシュを引き起こす。