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自分の子どもをコンテンツ化することの危うさ

*本ノートの内容を「自分の子どもをエッセイの題材にすることの危うさ」(https://kakuyomu.jp/works/16817139555828692668)に移動しました。

6件のコメント

  • エッセイ漫画の娘さんのお話、でしたよね?
    Twitterでフォロワーさんと少し語り合いましたね。どうして、その家事育児の辛さをフィクションとして物語に活かそうと発想できなかったのか、そうすれば子どもも傷付かなかっただろうにと。

    実は、私の娘が過去に酷いいじめを受けたことがあり、当時、娘にエッセイにして出して欲しい、同人誌でも良いからと言われたことがあります。
    可愛い娘の頼みなので、一度は考えました。辛いことを振り返り、向き合い、文字にしようとしました。
    でも、書くと、必ず加害者のことに触れなければならないんですよ。さらに、関わった人達のことにも。

    どんなにこちらが辛かったとしても、相手にも人権があります。名前を伏せ、偽名を使い書いたとしても、当事者には伝わるかもしれません。さらに、関係者を巻き込むことになるかもしれない。

    被害者側が泣き寝入りするのはおかしい、だけど、この戦い方は違うのではないか。
    そう悶々と考えて数年が経過し、結局、エッセイにすることはありませんでした。

    ただ、その辛かった経験や記憶は、私の小説の悪役たちの元になっていたりします。
    そうすることで、私は辛かった経験を昇華しているんですけどね。

    リアルを綴るのは、危険を伴う。
    その事をしっかり心にとどめて書いていかなければと思いますね。
  • 日埜和さま

    日埜和さまもご存じでしたか。
    ちょっと前、すごく話題になってましたよね、この話。
    今は少し落ち着いてきたのでしょうか。

    娘さん、いじめに遭われていたのですね。
    娘さんも日埜和さまも、つらい思いをされたことと存じます。

    そしてそこで踏みとどまった日埜和さまの思慮については心より尊敬するのです。

    自分のつらかった経験を昇華の段階を経て作品に取り入れるというのは、モノを書く人間にとって必要なプロセスだと、私も思います

    「ペンは剣よりも強し」とは福澤翁の言葉ではありますが、元の意味を超えて、人を傷つけてしまうこのような場合にも言えるのではないか、とも思います。

    リアルとフィクションがいともたやすく垣根を越えてしまうことについて、特に電子の海に作品を放流している我々はそれを忘れてはならんですね。

    コメントありがとうございました。
  • こんばんは。

    私もその話題、SNSで見ました。
    昔、『積木くずし』という本がベストセラーになり、ドラマになり、
    映画になりましたね。その時、娘さんがかなり苦しんだとか。

    商業、売上げ、視聴率など大人の都合で傷つくのは子供だけではないとも思います。

    私も家族のエッセイを書いていますが、この積木くずしの教訓から、
    書く内容は全て娘にチェックしてもらっています。

    娘はコメントまでしっかり読んでくれてます♡

    精神疾患にまで追い詰められたら、親子の信頼関係がなくなって大変ですね。動画での顔出し、怖いなって思います。
    色々考えさせられる記事でしたね。
  • 星都さま

    「積み木くずし」は少々私の年代とはずれており、先ほど改めてググってみたのです。娘さん、結局覚せい剤で体を壊して35歳で亡くなっているんですね。奥さんも資産持ち逃げ不倫とか、壮絶です。

    自分の子どもと向き合うことを忘れ、自分の作品(コンテンツ)を充足するために、肥大した自己の延長としてしか子どものことを捉えることができなくなるのは、その親自身が病的な精神状態でもあるのかなと思います。

    星都さまのように、当人とちゃんと向き合って互いに意思を確認するステップは、必要なことだと思うのです。

    これまではそんなこと問題にならなかったのに!というのは、言い訳にすらならんのですね(´・ω・`) ヤングケアラーについても、小学生のランドセル問題についても。

    コメントありがとうございました。
  • 我が家も、娘の許可をもらってから書くようにしています。むしろ「昨日のネタ書いたかよ?」っと怒られます。
    書かないでって言われたことは、匿名だとしてもかけません。親子でも、家族でも、そこは忘れちゃいけないところですよね。
  • 雪うさこさま

    カクヨムで見ている限り、エッセイというジャンルには大きく2つの傾向があるように思えます。

    1つは、社会の物事に対して、自分の見解を述べるもの。
    もう1つは、自分の身の回りの事柄にたいして、自分の見解を述べるもの、です。

    前者は基本、公的に公開された情報に対する自分の意見ですので、同じ情報に対して賛同する他人の意見を得られるのと同時に、否定する他人の意見と衝突することがあります。
    また、公開された情報を扱うので、プライバシーの懸念は相対的に低いと考えることができます。

    対して、後者は個人的な事情の暴露にあたるので、個人の意見や経験の報告であることを強調すれば、他人の意見は無効となります。
    ただし、家族を含む身の回りの人達のプライバシーを常に気に掛ける必要があります。

    最近ではドキュメントやテレビの街頭インタビューでも、背景となる通行人の顔にモザイクが施されていることが多くなりましたが、これはインタビューを受けているそのコンテンツの主体以外の人達のプライバシーを勘案してのことで、今の世情を反映してるのかなと思います。

    また、医療関係者にはより強いプライバシー遵守のルールが適用されているかと存じます。

    医療行為を受けることは個人の人権の範疇で、その内容を治療や処置に携わった人間が許可なく外部に漏洩することは、医療倫理に反する大きな過失です。

    したがって、医療関係者がエッセイを公開するときは、前者、1つ目に述べたタイプのエッセイとなります。

    どちらのタイプのエッセイが自らの執筆の姿勢やスタイルに合っているのか、それは作者それぞれに異なってくると思うのですが、私は先ほど述べたエッセイの2つの種類の内、1つめを選択しています。

    社会に対する問題提起のエッセイは、自分の中の価値基準や知識教養の程度をさらすことになるので、これもなかなかにプレッシャーではあるのですが、そのプレッシャーは私にとって2つめのタイプのエッセイよりは軽微なものです。

    匿名であっても、今はネットに"特定斑"なるものがいて、情報を分析して個人を同定する世の中なので、どうも気が抜けないと、けれどその辺りは私が神経質なのかもしれません。

    ノート本文に挙げた西原氏の炎上がかなり大きく、また本人によるコメントもいまだ出ていないため、今回"エッセイ"の題材として取り上げてみたのです。

    ただ書き散らすだけならチラシの裏に、けれど公募や書籍化を目指しての執筆活動をするためには、気を付けなければならないことがたくさんあるものです(´・ω・`)

    コメントありがとうございました。
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