今回と、あと最後に羽黒山権現についてのノートで庄内鶴岡取材ノートは一区切りです。……思想史はどこまでも深掘りできるため、時に道を誤りがちになるので表面だけさらっと。
さて18世紀も後半あたり、田沼意次の跡を継いだ松平定信は寛政の改革を行って幕政の引き締めを図りましたが、その一環として正道の学問を朱子学と定め、昌平坂学問所を開校しました。トップダウンの命令もありまして、各地で藩校が開かれ始めたのがこの頃になります。
朱子学という「教科書」を指定されていたため、多くの藩校が朱子学に沿った学問を藩士に教授していましたが、前にお話しましたように水戸藩なんかですと水戸学という「私本教科書」で教育を行っておりました。
他に尖った感じの薩摩藩ですと一応朱子学に乗っ取ってみるものの蘭学などの洋学をふんだんに盛り込んだり、佐賀藩なんかですと科学工学の技術を教えたりと、それぞれの地方ごとに工夫や特色がみられます。
さて幕府開闢以前からの徳川氏の家臣である庄内酒井氏はどうだったか。
もちろん朱子学だろうと思われましょうが、実のところ朱子学に異を唱えた荻生徂徠の徂徠学を主軸とした教育を行っていました。おもしろいですね。
朱子学はあまりにも封建主義に過ぎて個人個性の尊重が足りないのではないか。
ざっくりいうと徂徠学はそんな疑問から始まっている思想学問であったりします。
戊辰戦争の最後まで新政府軍と戦い抜いた幕臣庄内藩。
一度も新政府軍に敗退することがなかったこの藩の基盤となったのが、幕府の「教科書」に疑問を呈した学問にあったというのは本当に興味深いところで、深掘りするとアルゼンチンにまで到達しそうですのでここまでにいたします。
写真左上は庄内藩の藩校に設けられた藩主用の表玄関です。藩主は鶴ケ岡城からそこそこダイレクトにこの学校にアクセスすることができました。中段飛ばして左下に酒井氏の家紋カタバミが記された書見台がありますが、こちらが藩主用の個室になります。
訪れたのがちょうど雛祭りイベント期間中でして、違い棚の下には古い雛飾りが飾られておりました。ここ庄内に独特のお飾りといたしまして、飾り菓子というものがございます。砂糖と粉を混ぜて縁起物のミニチュアを形作り盛り合わせたものです。
なかなか綺麗で可愛らしく土産に買って帰ろうかと思いましたが、原材料名を鑑みるに、わたくし、酔っぱらったときに食い散らかしてしまうのではないかというどうしようもない懸念がございまして、断念した次第です。
*食用にあらず、との断り書きが土産品には記されておりました( ゚ω゚)
さて雛飾りついでにご紹介いたしますと、前回の松ヶ岡開墾記念館の回でちらっと述べましたように、庄内の地には郷土人形が伝わっております。布と木でできた正統の雛飾りは高価ということもあり、土を成形した比較的安価に手に入る郷土人形が雛段を飾る人形として広くこの地の人々に愛好されてきたという歴史がございます。
右上の写真がそれを再現したものなのですが、五人囃子まではO.K.、その下からが実にフリーダムな人形で雛段が飾られております。七福神に紛れて天照大神も鎮座していますね。何を置くかは家人の気分らしく、そうあまり決まりもなさそうではありました。目出度く色鮮やかであれば良い、というおおらかさがこの庄内雛飾りの魅力かと存じます。
ただ残念なことに、庄内鶴岡に伝わっていた郷土人形の伝統は途絶え、この人形は現在、近隣の地に伝わるものであるそうです。
このほか、名門である酒井家に輿入れした名家の姫君の雛飾り・道具も展示されており、そちらは撮影禁止でしたので写真画像の類はございませんが、とても見事で迫力あるものでした。めっちゃ細かい道具がたくさんある!しかもバラ売り厳禁の但し書きまで付けられてる!( ゚ω゚)
さらっとあっさり、このあたりでまた話題は変わりまして、右中下の写真を説明いたしますと、こちら、明治期に建てられた木造の大きな倉庫です。
酒田湊にこれと同時代、同様の建築物があり、そちらは手入れされたりして観光名所として保管されているようですが、鶴岡駅前にあるこちらの倉庫群は現役で関係者立ち入り禁止となっております。
塀の外でぴょこぴょこ跳ねて中を見ようとする不審者ムーブをかました作者でしたが、宿泊した駅前某ア〇ホテルの客室から全容を見下ろすことができてテンションが上がりました。
……しかしあれですね、普段〇パホテルを使わないのですが、これ系のビジホは壁がベニヤ板か?みたいな疑問を、おっと、本題から外れるのでここまでにします。
そんなこんなでアパ〇テル隣室のオヤジのくしゃみを聞きながら睡眠休息をとって、いよいよ次回は大本命、羽黒山権現の取材ノートを開示させていただく予定でございます。