2月に入ってからずっと仕事のオンライン講習を20時間くらい受けていて、時間が取れずに苦しかったのですがようやく終わりました。
座学はどうしても苦手ですが、事故写真などを見ると興味が湧くのでやっぱり現場は好きなんだなと思います。
ところで私はミステリが苦手です。
というのも、事件現場の詳細な説明を読んでもあまり理解できないからです。
細かい間取りなどは空間把握能力が低いのかまったく分かりません。
そもそも自分が住んでいる町の風景もよく覚えていないので20年住んでいるのに「ここどの道に出るんだっけ」と分からなくなります。
私は脳にフィルタをかけていて「自分にとって興味がないものや敵対していない安全なもの」に関してはすぐ忘れるという傾向があります。
このせいで雑談などがまったく出来ないし、外まわりから戻ってきた時に「雨降ってた?」という質問をされても答えられない有様です(雨が降っているかどうかに興味がない)
なのでミステリは苦手なのですが、ミステリの構造そのものは好きです。
「謎があり、それを開示してもらうために読み進める」
というのは読書の根源的な楽しみではないかなと思います。
苦手なのはいわゆるパズラーというか、古典でいえばエラリー・クイーンやアガサ・クリスティです。
二人とも大学時代にかなりの量を読んだはずですが、まったく覚えていません。
かろうじてクリスティは「そして誰もいなくなった」と「アクロイド殺し」だけは有名なので勘所として押さえましたが、それでも細部は曖昧です。
そんな健忘症の私が覚えている作家がいます。
ディクスン・カーです。
カーはオカルト趣味とかウンチクをよく語るので「トリックに関係ない話題をするな」とよく怒られていたらしいです。
しかし、私はカーのオカルト趣味があったからこそ、彼の作品を読めたのだと思います。
カーは自分の書くものに対して「俺が好きだからやってんだよ」みたいな突っ張り方をするタイプでした。
オカルト趣味がトリックを偽装する上で有効な舞台装置だから、とかではなく、「幽霊屋敷ってさァ……いいよね!」みたいなノリだったんじゃないかと思います。
なので本人が好きで書いているものの中に、トリックの鍵が隠されていても、あまりに自然に偽装されているから気づけないんですね。
これが演出上の有効な舞台装置としてしかその題材を取り扱わない人間は、必ず違和感のある書き方をします。
昔、叙述トリックで男性が実は女性だったというよくあるネタを私は別作品で二度看破したことがあります。
その違和感のある描写の初出で一瞬で気づき、つまらなかったので飛ばし読みしたらやはり女性の登場人物でした。
相手を騙そうとだけしている人間の叙述トリックは不自然です。
しかしカーの場合は叙述トリックかどうかはともかく、カーが好きな世界観を壊さないように描写されている中でトリックを織り込む高等なテクニックを使っています。
偏見かもしれませんがクイーンであれば、そのオカルト趣味がトリックに有効かどうかだけで判断するはずです。
私はそういう作品はどうしても作者の『念』を味わえないので、読んでいて退屈に感じます。
ここでタイトルですが、ミステリ古典でいえばクイーンやクリスティは一番手と二番手だと思います。この二人は素人でも名前を聞いたことぐらいはあります。
しかしカーを知っているという人間は少しミステリを調べたことがある人間です。
またカーにはクリスティの「そして誰もいなくなった」やクイーンの「X~Zの悲劇」のようなわかりやすい代表作がありません。
強いて言えば「火刑法廷」かもしれませんが、あれはかなり特殊な作品です(私はカーの作品の中で1,2番目に好きです)。
これはどういうことかというと、
「ディクスン・カーは誰もが知っている有名作がないにも関わらず100年後の書店に本が並んでいる」
ということです。
私はこれをカーが歴史的価値がある作家だからではなく、カーという作家には時間のふるいを超えていけるだけの地力があったから――作家としてのスペックがズバ抜けていたからだと判断しています。
人を傷つけたり困惑させたりする言い方をすれば、カーはクイーンやクリスティより小説家としての腕がよかったと思っています。
カーの特徴として、トリックよりも「作品が小説として成立しているかどうか」というのを重要視していたような気がします。
「蝋人形館の殺人」(ホームズを意識したワトソン・バディ系譜の作品)なんかも私は大好きなのですが、これもカーの
「俺なら超かっこいいホームズものを書けると思うんだよねぇ……」
という『念』が感じられてとてもいいです。
トリックというか話運びも好きですが、そのために不自然な書き方をしたり、「ホームズものがやりて~」って自分の気持をないがしろにしたり彼はしていないんですね。
「俺ってマジで最高だと思うんだよね」と本気で信じている作家の話は時間のふるいにかけられても消えません。
カーの話がどれも傑作か、というとそんなことはないとは思いますが、それでも私はカーの作品の記憶というのはうっすらでも覚えています。
特に『火刑法廷』は三度再読しました。
本当に面白い作品は、再読に耐えられるものだと私は思っています。
話が逸れましたが、誰もが知っている有名な一番手や二番手ではなく、マイナーなのになぜか消えない三番手。
私が面白い作品を探す時はこの基準を使ったりします。
三番手扱いするには一番手と二番手は誰なんだよって感じの作家としてはオースン・スコット・カードが好きです。
彼は『エンダーのゲーム』が有名ですが映画化して大コケしていました。
私はエンダーの楽しさはカードの文章にあったと思うので、映画化しても無駄だろうと思っていました。
話の筋として技巧的ではなく、登場人物の苦悩や感情を解像度の高い描写で表現する作家に映像をつけても無意味です。
『エンダーのゲーム』は『エヴァ』の元ネタ、のような売り込み方がされていましたが庵野とカードはまったく異なります。
私がカードの好きなエピソードの中で、エンダー世界をシェアワールドにしようよと友人作家と話していたのに急に
「やっぱりやめた! これは俺の世界だ! 手を出すな!」
とシェアワールドを取りやめて友人に呆れられた、という話があります。
超絶ワガママですが、その超絶ワガママなやつが拘る作品なんだから面白いんじゃん? と思います。
庵野は取り扱う題材そのものが好き、という傾向がありますがカードは
「SFがどうとか興味ない。俺は俺のやりたいことに都合がいいからSFを使ってる」
と言っていました。
なんだかカーと違って題材に愛がないような気がしてきて比較するのはどうか? と今感じ始めましたが、どちらにしてもカードも「自分のやりたいことへの熱量」は凄まじく高い作家でした。
なんとか格好をつけるならカーも「ミステリがどうとか興味ない。俺は俺が面白いと思うもののためにミステリを使ってる」という考えはあったかもしれません。
この三番手の法則は10年くらい温めてきた考え方なのですが、
「いや、単純に顎がカーとスコットカードが好きなだけじゃねぇの?」
と言われたら「そうかも……」って感じになってきてます。
私はとにかく口喧嘩が下手です。