俳句(=俳諧の発句)が盛んになるのは江戸時代からです。
そのときから現在までの約400年間、和歌( ≒ 短歌)と俳句をともによくしたひとは、寡聞にしてほとんど知りません。
その稀有な人物のなかでもっともよく知られているのは正岡子規(1867-1902)でしょう。
現在でも、斎藤茂吉(1882-1953)や高浜虚子(1874-1959)を通して、その影響力を良くもわるくも少なからず残しているかにみえます。
子規は、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句が実質的な代名詞になっており、どちらかといえば歌人としてよりは俳人として知られているように思えます。
わたしの率直な感覚では、子規と交流のあった俳人が故人の句を多く残すことに力を入れすぎたようにみえます。
多く伝えるよりも厳選して伝えることに注力していれば、以後の俳壇はより良いものになっていたかもしれないと思わないでもありません。
翻って、短歌は俳句に比すればあまり多くは残っていないようですから、凡庸なものは比較的少なかろうと思います。
また、虚子よりは茂吉にその道の才があった(もしくは本業のおかげで生活の心配がなく、こころにゆとりをもってのびのびと取り組めた、生まれ育った地にめぐまれた等)ために、歌壇の状況は俳壇のそれよりも良くありつづけたかと愚考します。
与謝野晶子(1878-1942)・北原白秋(1885-1942)・若山牧水(1885-1928)・石川啄木(1886-1912)らロマン派の歌人の擡頭も、歌壇を活気づける起爆剤になったにちがいありません(なお、牧水は後にリアリズムに転向)。
一方の和歌において歌聖と慕われる人物は柿本人麻呂(生没年不詳)で、ときに山部赤人(生没年不詳)とあわせて二大歌聖、その道は山柿の門と称されます。
他方の俳句において俳聖は芭蕉(1644-1694)、ときに蕪村(1716-1794)とあわせて二大俳聖とされます。
わたしは歌聖よりも俳聖が好きですが、情報量の差や時代の隔たりに鑑みて自然な帰結なのかもしれません。
和歌と俳句はいわば兄弟、物にたとえれば動画と写真のような関係です。
良いうたが良い句を生み、良い句が良いうたを生む循環がすえながく続くことを祈っています。