『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったかのか?』ひこ・田中(光文社新書535)
ゲーム、テレビヒーロー、アニメ、マンガ、児童文学。様々なメディアの子どもの物語の歴史を辿りながら、90年代以降の共通の傾向として、「ヒーローは自身の有り様に自信をなくし、成長の道筋は乱れ、主人公の位置があいまいになり……。これまで子どもの物語を形作っていた様々な要素がほころびを見せ始めているのです。」と指摘されてます。
大量の作品を取りあげ、紹介しながら制作側の裏話など披露されていて面白いです。テレビ番組でも何でも、製作者側が意図した通りに受け取られはしないって、それが普通なんだって、思っちゃいます。発信してしまえば物語は受け手のものですからね。受け手の数だけ物語がある。とはいえ、ガンダムを卒業できない大人たちが多いというのも……
この頃のアニメ史を語るのに「ヤマト以前」「ガンダム以降」ってよくいわれますが、著者さんはこれを「ビデオ以前と以後」としていて、なるほどって思いました。
「前者は、お互いの記憶を想像力で埋めながら、その感動を共有するという物語の享受の仕方です。」
「一方、後者は何度でも見直せますから、どこまで詳しく、正しく覚えているかの自慢が中心となり、解釈の違いに重きが置かれません。」
「ですから、『宇宙戦艦ヤマト』をリアル体験しておらず、本格的にアニメに目覚めたのが『ガンダム』である世代と、それ以前の世代とでは、物語の享受の仕方がかなり違ってきています。」
「何が違うかと言えば、旧世代は子ども時代の物語を思い出として語り、『ガンダム』以後の世代はその物語を思い出としてではなく、自分の寄る辺やアイデンティティとして語る傾向があるのです。」(p151より)
この世代が『新世紀エヴァンゲリオン』を生み出した、ということで。
「『機動戦士ガンダム』には「乗り越えるべき相手、巣立つべき相手」が見つかりませんでしたが、『新世紀エヴァンゲリオン』には、子どもたちをそうした成長のシステムに乗せようという仕草すらなく、社会性を欠いた「大人らしくない」大人たちが、「大人になれ」と言いながら抑圧的に彼らを取り囲んでいるだけです。こうした、全く出口なしの状況を描いた物語が、出口を探すのを放棄するラストではなく、出口を示すラストを用意するのは至難の業です。」(p355より)
うん。そうだよね……どうなるんでしょうね。
キャラクターのお話もなるほど、でした。
例えば、ミッキーマウスは一般的には「キャラクター」と呼ばれてるけど、最近は「キャラ」と「キャラクター」を分けて考えたほうがいいと思われると。つまり、
・キャラとは、成長すると気持ち悪い存在。
・キャラクターとは、成長しないと気持ち悪い存在。
「現代の子どもたちは、生身の自分をさらけ出してコミュニケーションに失敗することをとてもおそれています。」
「そこで、自分をキャラとキャラクターに切り分け、キャラをできるだけデフォルトして特徴づけ、それを自分だとして前面に出し、お互いの立ち位置が変化しないように気を遣います。」
「生き延びるためにはキャラが有効なのは明らかです。キャラクターは自分の根源に触れてしまうのでチェンジすることは容易ではありませんが、キャラだとチェンジが簡単ですから」(p138より)
なーるーほーどー。今、物語においても「キャラクターの成長」より「キャラの安定性」が求められてるのは明らかですものね。登場人物の成長の機微を「キャラのブレ」とか指摘されちゃうのですもんね(ぐちぐち)
その他、そうだよねーと拍手喝さいの指摘が多くて。
制作陣が男性であった為にパンツを見せなくてはならなかった初期の魔法少女たちの正統な子孫たちは、インデックスやナギであるということ。ここでは、
「思春期以降の男の子向けの、女の子が活躍するアニメの多くは、現在、様々な「安全・安心」を提供しています。」
「こうした、お気楽な設定は、物語がかつてほど自律した強度を持たず、享受者の要求のままに展開してしまう昨今の状況をそのまま反映しています。」(p226)
そして、正真正銘、女の子のための物語では、
「現代の女の子の物語はもう、パンツを見せたり、太もももあらわなレオタード姿になったりしません。戦うために変身はしますが、スカートの下はレギンスで決めています。」(p234)
そーだ、そーだ。女の子キャラはパンツを見せるためにいるんじゃないぞ、バーロー!!(どこの酔っ払いだ)
先達の男性作家たちによるマンガと自身のズレとを修正することから起こった少女漫画の快進撃、少女向けでは一流の出版社だった集英社からのジャンプの創刊。そのアンケート人気至上主義は諸刃であり、物語の特徴や優位性を後退させたと。
そのほか様々な作品をテキストに物語の変化が解説される中で「なぜ成長を描かなくなったのか?」の原因らしきものが散見されるのですけど、著者さんは最後に明確に述べられてます。
「理由は誰もが指摘するように明らかだと思われます。情報量の増大と、それへのアクセス方法の簡易化による、大人と子どもの差異の減少です。差異が見えにくくなってきていますから、大人は必ずしも将来の目標とはなり得ないのです。」(p358)
「もっともこうした事態は何もインターネットやケータイの普及によって始まったのではありません。」
「大人と子どもの差異の減少化は近代社会そのものに予め組み込まれているのです。」(p361)
この近代社会の課題について著者さんは前向きに考えられてます。
また、あとがきでは校了後に起きた震災の影響について触れてます。
「早くて一〇年後に生まれてくるこの国の子どもの物語は、震災前に知っていた現実より幅の広い現実、今までファンタジー作品でしかお目にかかれなかった風景を現実として子ども時代に見た人たちが描きますから、リアルの幅が変わってくると思います。つまり、ファンタジーは描きにくくなり、これまでファンタジーの範疇でしか描かれなかった素材や展開が当たり前のようにリアルに出てくる可能性があります。
人間には物語が必要です。ですから、もしファンタジーが描きにくくなっても、そうしたリアルな物語は、リアルな現実を物語の側から見直したり、現実から一時待避したりするのに相変わらず役立つはずです。」
今後どんな新しい物語が生み出されるのか、楽しみに待ちたいですね。