・『〈物語〉のゆらぎ 見切れない時代の児童文学』奥山恵著(くろしお出版)
教育現場にいる著書が「何を大切にしていくか、日々迫られる判断や行動において、どれだけ助けになったかわからない」と、児童文学とその批評について書いたものをまとめた評論集です。
三部構成で数々の作品を取りあげて物語の構造を読み解いているんですが、取りあげられるのはリアリズム作品が多く、そのどれもがかなりハードな内容で、またまた児童文学すごいな、と思ってしまいました。
解説の中で引用されてる批評家の言葉にもハッとなることが多かったです。冒頭でまずE・L・カニグズバーグ(『クローディアの秘密』の作者)の『ぼくと〈ジョージ〉』(二重人格の少年の物語)の結末をどう読み取るかに焦点を当てている中で、蓮實重彦(「健康という名の幻想」)の「真の感動とは、欠如を補うかりそめの生ではなく、生の過剰による生の充実でなければならない。」という一連の言葉を引いてこう述べられてます。
「蓮實の言葉が示唆に富んでいるのは、「過剰」をそのまま、「荒唐無稽」で「生なましい」体験として受け止めつつ、そのありのままの存在感に「心底から怯える資質」こそ、「作品」に向かう態度であると言い切っていることである。「作品」を生み出す作家、「作品」を受け取る読者(批評もふくめて)、いずれの態度においてもあてはまることだ。」(p29より)
「作品の〈出口〉」について考察する章では、〈事件の完了〉のもつ欺瞞性に触れてます。「作者がその答えに導くべく、問いや謎を投げかけ、作中人物を計算通りに動かしていたということを露呈してしまう。」ということです。
志賀直哉の「小僧の神様」では、「巧みな、整合性のある見事な終わり方」を作者は書こうとしたものの、ひたすら仙吉を翻弄していることが「少し残酷」に作者には思えたから、作者は途中で筆をおいてしまう。
〈事件の完了〉に〈物語〉が集約されていくことで窮屈さ、欺瞞性が生まれてしまう。その中での登場人物の「補完」を「成長」とは捉えられないというのですね。
「しかし、そもそも、作者が自らのモチーフを語り終える〈出口〉は、〈事件の完了〉する場所に限らず、多様にあるはずだったのだ。いや、〈事件の完了〉が構造的に抱えている欺瞞性に気づいた作者は、むしろ意識的に、〈事件の完了〉とは別の場所に、作品の〈出口〉をひらくのだとも言える。」(p51より)
この意識的に〈出口〉をひらいた作品として那須正幹の『ぼくらは海へ』と村上春樹の『1973年のピンボール』が挙げられてます。そしてこの二作品の発表が同じ1980年であったことに著者は時代性を感じたようです。
とテキストはリアリズム作品が多いのですけど、最後のⅢ部でファンタジー作品にも触れてくれてます。ここでも時代性としておもしろいなと思ったのは、それまでのファンタジー作品の主流だった善悪二元論の崩壊です。天沢退二郎の『光車よ、まわれ!』において作中でまさに善悪二元論が崩壊している。「少数者」と「多数派」の構図がここで提出されたのだそうです。
そして、その後の萩原規子の『空色勾玉』では「「多数派」と「少数者」の間で揺れ続けていた狭也は、その「少数者」の異質の力を失って、「多数派」の側へ分け入ったのである。この狭也と稚羽矢の選び取った結末に、さわやかさを感じとって、安堵して本を閉じる読者は、おそらく少なくないだろう。なぜなら、このように「多数派」の側へ分け入って、手を携えていくあり方が、現代の私たちの思考に親和的なものだからである。」(p202より)
「人々のもとに分け入るとき、稚羽矢は「異形」の力を潔く捨てている。(中略)安易に「多数派」の側に魔力を持たせ、その危険性に無自覚なファンタジーも少なくない中で、こうした倫理観もまた、この作品を現実的なものにしていると思う。」
うーん、なるほど。というふうに物語の構造を読み解く一冊、お話作りの参考になるかもです。
あ、ここで思わぬ拾い物だったのは、男女の一人称交互視点の作品としてジョン・ロウ・タウンゼントの『愛ときどき曇り』が紹介されてたことです。著者が云うには、この後の1991年の江國香織の『きらきらひかる』に続いて1992年になると「二つの系の語りという手法で書かれた作品が児童文学で多出する。」というのですね。うーむ、児童文学で散見されたものがラノベに持ち込まれたのか、どうなのか……
・『〈運ぶヒト〉の人類学』川田順造(岩波新書1502)
これ! もう、これ「へえ~~~」の連続でした!
フランスを始めとする西洋では天秤棒運搬はあまり例がないのだそうです。逆に腰で調子を取ることに優れ、車輪が発達しなかった日本では棒で担ぐ文化が異常に発達したのだそうです。へえ~~~。
「文化の三角推量」を提唱する著者によると、フランスなどの西洋は「目的志向」であり「道具の脱人間化」「人間の巧みさに依存せず、誰がやっても同じように良い結果が得られるように道具を工夫する」。対して日本は、「過程尊重」「道具の人間化」「物的装置として単純な道具を、使う人間の「巧みさ」で上手に使いこなす」。
なるほどー。ジャパニーズ匠ですね。いいんですよ、職人さんの努力や技術が町工場を支えてきたのです。それはいいんです。でもこのご時世、一般的な職種まで個人の能力に依存した業務形態はもうやめようよって思ってしまいますね。人を使える能力のある人が上に立つべきでしょって、話です。あれ、なんか話がズレてるな⤵
そんなこんなで、今日は子どもたちも一緒に図書館に行ったので児童書コーナーを眺めてきたのですが。なんと! 青い鳥文庫で宮部みゆきの『蒲生邸事件』を発見! えええ、マジか。『ステップ・ファーザー・ステップ』や『今夜も眠れない』が児童書になってるのは知ってたのですが『蒲生邸事件』まで。裏表紙を見ると「小学校高学年向け」の文字。まじか~。私がこれ読んだのハタチくらいだったぞ。分厚い上下巻がけっこう読まれて真っ黒になってるのですよ。いいよいいよ、グッジョブ講談社!(ここ、カクヨム……)