落ちたああああ。うっかりしてたら、第6回暮らしの小説大賞一次選考通過者がとっくに発表になってました。『女は~』『傷つきたくない~』落選です。ら・く・せ・ん~~~~がっくり。
『女は~』自信作なんだけどなあ。どこに持ってけばいいのかがさっぱりわかりません(書いときながら) 次はダメもとでビーズログかなあ(加筆して) こうやって可能性をつぶしていって分析しないと分からないので。
(……なんて考えてましたが、ビーズログの公式HP見てムリッッってなりました。「はっとしてキュンとする恋を呼ぶときめきレーベル」ですって(T_T) なにそれ、おいしいの? オトナの女性向けレーベルはどこ~~???)
というわけで『女はそれを我慢できない』『傷つきたくない私たちは』再公開します。文章をちょこちょこ手直ししたのを貼り付けて、ぼちぼち順次公開していくので、見かけましたらよろしくお願いします。
それでは、読書メモです。長くなりそうなので、興味のある方だけお付き合いください。
『ポピュラー文学の社会学』中島昌爾編(世界思想社)
「ポピュラー文学の世界を、読者の側の日常的な経験や読み方・消費のされ方を中心に考えてみたい」「フィクション文化や私たちの空想領域という視点からポピュラー文学を見ていきたい」(「あとがき」より)という二つの理由から企画された一冊。
ポピュラー文学とは大衆文学です。章ごとにそれぞれの著者がそれぞれの角度から論じているのが面白いです。発行は1994年で元になっているデータは古いかもしれませんが、このままの流れで現在に至っていると思えます。長くなってしまいますが、面白かった章を順番にピックアップしていきます。ご興味のある方はお付き合いください。
「Ⅰ 現代人とポピュラー文学」
「第1章 ポピュラー文学・考」
「大衆文学は生産・消費の形態から見れば商品文学、マスコミ文学であるが、大量性・娯楽性を持つものとして常に純文学との対比において論議されてきた。」(p4より)
ということで「純文学」対「大衆文学」っていう二項対立に触れてない章はないってくらいに避けて通れない道なのですね、これ。この章では
「大衆文学とは近代大衆文学という性格を持つものであった。高度成長以降の産業・消費・情報の高度化、中流化、全国的都市化にともなって七〇年代にはこれらの構図が次第に力を失っていく。」
と対立構図の崩壊を指摘しています。中間小説の台頭で「純文学論争」が巻き起こるのが1960-1970年代ですものね。
続けて60年代後半、人気を博した司馬遼太郎の歴史小説の読者の多くが高等教育を受けたサラリーマン層、新中間層であったことに触れ、現代の読者は「新中流読者」であり現代の大衆文学は「新・大衆文学」と言わなければならない、そういう時代を受けて「ポピュラー文学」という言葉を採用したのでそうです。なるほど。
また「優越的な位置にあった文学と活字文化の時代が終わり、多様なメディア文化の一つとなり、(中略)共通の特質を備える文化として捉える必要があるだろうし、ポピュラーという名称をつけた理由はそこにもある」というふうに、文学の商品化・多様化について述べられていきます。
「エンターテイメントの登場を契機として文学の商品化・消費化が進み、ポピュラー文学の領域的・量的拡大が激しいものとなっていく。読む・考える・批評する対象ではなく、消費する・楽しむ・遊ぶ商品となる。(中略)大量消費時代において「使い捨て」「無駄」として消費されるということである。」(p11より)
「今日では読者の日常と小説を書くことはかけ離れてはいず、書き手と読み手の距離は近い。現代は素人、アマチュアの時代であると言われる。(略)それはますます、軽・文学化していくことを示す。(略)だがそういう軽さは、現代の文化の、私たちの生活の軽さにほかならないだろう。」(p14より)
出版の1994年当時でこうであったのだから今現在はもっともっと「軽く」なっているわけですね。
そして、ポピュラー文学は「物語性」が明確であり、それが愛好されてきた最大の理由だとしています。この項で、目からうろこというか、ひっかかったのが以下の部分です
「中島梓は「文学」と「小説」を別のものとし、後者は「物語」と呼んでもいいと言う。前者は近代文学の主流、純文学であり、筋そのものは明快に追えないのが一般的だし、筋だけ取りあげても意味がない。と同時にその物語的要素をはぎとっていったのが純文学である。そういう「文学」に対し、後者の物語性を持った小説は明らかに異質である」(p17より)
としたうえで、物語は神話や昔話などの再話的、伝承的なものであり、個性化されないというのですね。ポピュラー文学はこの物語の系譜を引いていると。「個性化されない」から「読んでしまえばおしまい」「使い捨て」になるのかなって私は解釈しました。でも、そうやって読み捨てている小説(物語)の中にも忘れられない物語ってありますよね。子どもの頃読んだ本だってそうです。読み捨てにされる物語と忘れられない(何度も読み返される)物語、その違いってなんだろう。
「J・G・カウェルティはポピュラー文学を、筋や人物が定型化されているという意味で、純文学と区別して「定型小説」と呼んでいる。この定型は物語の形式や原型につながったものであり、読者はなじみのある定型によって安心して楽しむことができるし、作家は効率的に生産できる。」(p19より)
テンプレは昔からあるだろうってラノベテンプレ擁護論がありますよね。しかしですね。ここで言われる物語の定型は「自己や他者の行動や人生を説明し理解する形式」であって「現実逃避しているわけではない」「人生や自己と世界の関係についての物語をもとにして生きていく」ためのものだということは、声を大にして言っておきたいです。
「第2章 ベストセラー論」
第1章の紹介が思いっきり長いので、ここからはサクサク行きたいところなのですが、このベストセラー論も興味深いのです。戦後のミリオンセラー一覧を見ただけでもカオス状態。『性生活の知恵』(1960)『英語に強くなる本』(1961)『愛と死を見つめて』(1964)とその時代に求められてたものが分かります。がんばってはしょっていきますと、「戦後第一期」1946-50には「人間の生き方に対する関心」、「戦後第二期」1953-58には「恋愛とセックスに対する関心」、「戦後第三期」1959-62には「実用的な知識への関心の時期」ということで、60年代にはハウツーものがベストセラーを席捲するのですね。その草分けがカッパブックスであり「サラリーマンに代表される中間層をターゲットにした軽くて実用的な読み物である。」
ここでも「中間」で「軽く」なのですね。そして作家のタレント化、タレント本の隆盛、角川商法と呼ばれる「本も映画もレコードもヒットさせることを狙った」戦略でベストセラーがつくりだされるようになる。ここでは「メディア・ミックスというよりはメディアの相互扶助である」と論じてます。
「雲の上の存在ではなく近所の仲間や友だちのような存在であることが、タレントとしての必要条件になったのである。そしてそのことは文学作品を多く書く作家、あるいは評論家や随筆家といった肩書きの人たちにもあてはまるようになっていく。」(p40より)
そしてこの時代に登場した作家たちの共通した特徴として「その作品が芸術的に昇華されたものというよりは饒舌な話言葉で成り立つ世界であり、自己の内面に深くはいりこむのではなく、外見的な描写、衣服やモノで自己や他者、あるいは関係や世界を描き出そうとする点だろう。(中略)先にあげた作家たちの文体は、文学の退行現象としてみることができるかもしれない。」と述べられてます。
で、この文体について高橋源一郎と富岡多恵子との間で論争が展開されたそうなのですが、この論点をついた解説に、また目からうろこでした。
「加藤典洋はこの二人のやりとりを、小説を書き手の表現行為としてとらえる富岡と、書き手と読み手のコミュニケーション行為としてとらえる高橋のちがいとみている。それはいいかえれば、「書くものとしての小説と読まれるものとしての小説」のちがい、つまり「芸」と「サービス」との対立ということになる。」(p42)
ワタシ、ここでなるほど~~と思っちゃったのです。サービス! これが私が常日頃から頭を悩ませている「エンターテイメント」ってことじゃないのかしらって。エンターテイメントってサービスなのかなあって。今求められるエンターテイメントに「芸」はいらない。ずいぶん昔に、大御所芸能人の誰かが、芸能人なのに「芸」がなくなってるって言ってたような。小説にも芸はいらないってことかあ、なんて。
この文学のポップ化(アメリカ化)の流れが村上春樹につながると読み取れるのですけど
「けれどもまた、加藤典洋は、村上春樹の文体が富岡のいう「芸」も高橋のいうサービスも抜きとった、いわば「ナチュラル」と呼べる虚構言語によって成立しているという。(中略)彼はいわば自分に意識された感覚で物語を書こうとする。」(p44より)
なるほど~~「ナチュラル」かあ。さっきの「個性化されない」「物語」を「ナチュラル」に書ければいいの、か、な(迷走中)
続いて、毎朝新聞の読書世論調査のベストテンとベストセラーを比較して、売れた本と、おもしろかったと思う本とのズレに触れてます。なんかわかりますよね。売れる本とおもしろい本は違う。「売れる」作品より「読んでよかった」と思われる作品を書きたいですよね。
二章も長くなってしまったので、あとは本当にざっくりと。
「Ⅱ ポピュラー文学の現在」では「恋愛小説」「ミステリー小説」「サラリーマンの物語」「SFの社会学」「児童文学」「時代小説」の各ジャンルの視点から作品・読者論が展開されてます。
「Ⅲ ポピュラー文学の歴史空間」ではブロードサイドから始まる英国の民衆文芸、中・朝・日の三国を比較しての通俗文芸史、ジャカルタのオランダ植民地時代の大衆小説が紹介されてて、これまた興味深かったです。
この中のⅢ「第2章 三国「通俗」文芸志」では、これまた「文学」と「物語」として
「もはや「芥川賞」の権威など、見る影もない。ただし、社会そのものの「大衆化」と「中間小説」の風靡は、皮肉なことに、「大衆文学」の発展的解消をも、もたらした。大衆文学―純文学の二元論が、ほとんど意味を失ったのである。」(p227より)
と述べられています。
どの章でも述べられてることは、文学は「軽く」「消費」されるものとなっていること。そういう時代を受けて純文学もどんどんポップ化して崩れていってるのだろうな。時代時代で純文学論争が繰り返されるのはだからなのでしょうね。
このまま「文学」という「芸」が失われ、エンターテイメントゆえに最後に残る物語(小説)は、もしかしたらサブカルチャーであるライトノベルだったりするかも!? 『さよラノ』(by Han Luさん)っぽいですね。
今回は紹介したい本が他にもあるのですが、長くなってしまったのでいったん区切ります。