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切実さと赦し

 趣味がてらの小説執筆を始めて二月が経過する。もともと小説執筆をはじめたのは、ふと孤独を感じたために、なんでもいいから自分をアピールして己が存在を喧伝し、自分という人間が、この時代のこの瞬間には確かに存在したということを、世界に刻みたいと思ったからである。無論、書くことそれ自体に面白みを感じたのもあるが、そういった楽しむ気持ちの奥底には間違いなく、こうした祈りめいた渇望があった。
 
 よく私が好んで作品内で引用する「誰もいない森の中で木が倒れたら音はするのか」という言い回しがあるが、これに倣って書けば、世間から認識されなければ私は存在しないのと同じことなのだという、自己憐憫めいた悲しみがあった。

 わずかの経過ではあるが、執筆を始めて自分なりに得るものがあった。あいまいな表現であるがそれは、何にしても自己表現というのはある種の切実さを伴うものであるという気付きだ。自己表現と書くと口幅ったいかもしれないが、他に適当な言葉が浮かばないのでご勘弁願いたい。
 
 私はどちらかと言えば生き甲斐もなく怠惰に暮らしてきただけで、自分では人生に対する真摯さとか、それこそ切実さといったものとは無縁な人間だと思ってきた。しかし拙劣ながらも作って出すという行為を重ねるうちに、私の中にもある種の切実さが存在することに気が付いた。
 
 うまく言い表すことができないが、切実さとは赦しを求めることでもあると思う。こうであるほかない眼前のすべてと、それが己が能力を遥かに凌駕する故に、受け身である他ない自分への赦し。そして赦すのは自分自身であって、赦されるのもまた自分自身である。そうした意味で、赦しは克服とは違う。

 ずいぶんと曖昧模糊な文章になってしまったことをお詫びしたい。ただ、私が身の裡の考えを具体的かつ誤解の生ぜぬように表現する能力を具備していたのなら、おそらく小説執筆はしなかったろうと、今では思う。

 末筆ながら、いつも私の作品を評価してくださるフォロワーの方々。それから過去作に於いてレスポンスや温かい声援を下さったすべての方々に深謝を捧げたい。
 
 ありがとう。

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