前回の記事で、「悪堕ちものの文献求ム!」と書いたところ、別サイトでもお世話になっております方から、かの名著『嵐が丘』をお勧めいただきました。
名前は知っております。有名ですものね。
E・ブロンテによる世界三大悲劇の一つ……ということなんですが、他二つは『ハムレット』、『白鯨』とのこと。後者は私もよく読んでいましたが、悲劇……? かと問われると、別に……とも。そういう感じなので、『嵐が丘』もどんなもんだろうということで、評判の比較的良い光文社文庫の和訳を、とりあえず上巻まで読み切りました。
で――これが案外難解です。語り手が場面によって変わったり、言葉が「皮肉」として使われていたりするため、直訳をそのまま受け取ると、大きな読み違えが出てしまうのです。
たまらずにウィキペディアを見たら、案の定、刊行当時はまったく評価されなかったとのこと。まぁ、そうかも。どちらかというと、いまのビジュアルノベルとかになれた方ならすんなり入れる形式にも思えますが……。
内容についてはまた後日語るとしまして、今は1939年に製作された映画版も見ております。こっちはかなり分かりやすいつくりで、こういうコア・ストーリーの上に、原作の「味」がのっかっていたのだな、と。
ただ、私が求めた「悪落ち」とはちょっと違うかな、と思う一面も。
どちらかといえば復讐劇、愛憎劇がメインであり――飛び交う屁理屈に罵倒の数々からは、かの竜騎士07氏の人気ゲーム『うみねこのなく頃に』を連想しました。うむ、これはほぼ確実に影響しているのではないかな。
そんなふうに、古典文学にはいろんな発見があります。
先の『モンテ・クリスト伯』もそうですが、物語を作るのに過度なディテール描写や蘊蓄はいらないのだなと分かる。こと、一時期のジュニア向け文芸にはそういう傾向が大きかったように思えますので余計にね。
そう考えると、ここ数年の「なろう系」は古典文学が持っていた「物語そのもの」を楽しむ、描くことに回帰した造り、あるいはムーブメントと言えるのかもしれません。
時代は巡ります。かの文芸復興運動ではりませんが、また新しいパラダイムシフトの時も訪れるのでしょう。そういう意味では今を楽しむ。大事なことかなと。