新年早々から世の中に大事件が連続し、なんだか心が疲弊しているみなさん、お元気ですか。私も生きています。
なんか、こー、例年の3倍くらい疲れた気分がしておりまして。いっそのこと早く年明けてくれないカナというか、むしろクリスマスあたりから年末年始をゆっくりじっくりやり直したいカナ、みたいな。そんなことを考えたりもするのですけれど、過ぎてしまった時間は決して戻らないのであります。
刻が未来に進むと誰が決めたのだ!
やる気が出ないと言い続けて、1月中は創作らしいことは何もしておりませんね!
いや、世間の大事件をいいわけにしているだけのような気もしていますが。
日常生活に支障が出たわけではないので、自分が被災したなどと言う気は毛頭ないのですが、それでも震度5程度には揺れました。本棚が倒れたり落ちた食器が割れたり、テレビがテーブルの角に当たって液晶が割れたりはしたのです。
とはいえ家が崩れることもなく、燃えることもなく、無事に生きているのですから、まぁ、幸いとは言えるのでしょう。
地震後、通勤に使っている道路で見事に陥没したところがあり、現在も片側交互通行になっています。また、他にもあちこちの道路で「こんなところヒビ割れていたっけな?」というところは見ました。
陥没はともかくとして、ヒビについては実際に割れたのかもしれませんが、それは地震前の姿をよく覚えていない、ということでもあると思います。日常が維持されていたという、それ自体は当たり前で、特段意識する必要もないことなのですが、変化があって初めて、その尊さに気づくという体たらく。
何度も繰り返してきたことで、学習していないなあ、と思うのですが、そんなことをずっと考え続けているのも、きっと疲れることでしょう。
だから、たぶん、それでいいのだと思います。日常は尊いけれど、失うことに脅えていては暮らしが成り立ちません。学びは貴重ですが、単なる一般小市民としては、それは普段は忘れていてもいいことです。また、忘れていられるような社会こそ、正しく維持されている証拠でもあるのでしょう。
そんなことを考えます。
天災だけでなく、人の関わりの中からも痛々しい事件の報道があります。あまり無責任なことを言いたくありませんが、それでも、やはり生きてさえいればどうにかなるのが、世の中というものではないか、と思います。
せっかくこうして生まれてきたのです。死ぬまで生き続けてやらなくちゃ損じゃありませんか。死はいつか必ず誰にでも訪れますし、いつだって選ぶことができるものです。だったら、一分一秒でも先延ばしにしてやった方がいい。
私は今この瞬間も、「まだ死なない」という選択を続けているのだと思います。