LGBTを扱った作品は世の中にたくさんある。カクヨムの中にだって、たくさん。
高校生の頃母親の持っていた少女漫画を読んでびっくりした。
作中では男子が男子にふつーに惚れ、周りに応援され、カップルが成立し、愛しあう。
けれども母の持っていた漫画には違和感があった。
このキャラクターが本当に男子である必要はあったんだろうか
少女漫画の中の少年には、私の中のあなた、というか、必要以上に読み手の少女性が投影されている気がした。
要は胸のないただの女の子のような描き方をされている作品もあったのである。
女性なら誰しも思うところだろうが、第二次性徴というのはとてもやっかいだ。
まず筋肉のつきがわるくなって、運動機能が落ちる。
月経がはじまると、ホルモンの急降下にふらふらする。
胸は痛むし、機敏な動きが制限されるし、痛くて辛くて悲しい。
他人と触れ合うのは悪くないけど、妊娠のリスクは少女が払うにはつけが大きすぎる。
近代化が進むに連れて、少女でいる、ということには高コストになってしまったと、私は思う。
少女漫画の中で描かれている少年たちは、女性としての面倒なところをすべて切り落とした、便利な表現体にしか見えなかった。
大人になって出会った一本の映画がある。
有名な映画なのでご存じの方も多いかもしれない。
「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」
元はヘドウィグと言う名前の舞台作品だった。
舞台を手がけた監督が、主演脚本演出をかねた映画だ。
この映画の主役はヘドウィグという女性だ。女性というのは微妙なところで、彼女はソ連に生を受けた、トランスジェンダーの元男性である。共産主義による厳しく制限を受けた生活の中で、彼女はひとりのアメリカ人男性と出会う。彼はヘドウィグにささやくのだ
「アメリカにいって性転換手術をうけないか、ぼくと結婚しよう」
手術費用は自分が出すし、ここで性的嗜好を隠し暮らすよりもずっと安全だと、ヘドウィグと母親を口説き落としてしまうのだ。希望に胸を踊らせ海を渡るヘドウィグ。
ところが手術は失敗し、男性も姿をくらましてしまう。彼女に残されたのは、アングリーインチ。それだけ。
この段階で初めて、タイトルの意味するところを知って、私は開いた口がふさがらなかった。
劇中で失意のヘドウィグは歌う。タイトルと同名の曲を。(原作はロックミュージカルだ)
ソビエト政権下では、同性愛者として暮らすこともできず、ヘドウィグはひとりアメリカをさまよう。
愛を求めさまよう彼女は男性にも女性にもなれず、求めてもこばまれ、愛の結晶として作った歌もパクられ(しかも糞ださい改変をされている、私なら泣く)、もうぼろぼろである。
ヘドウィグはいかついし、けばいし、下品だし、ごつくて全然可愛くない。脚とかももうムッキムキである(舞台でも男性キャストがやることが多い)
それでも、ぼろぼろになりながらも、彼女は、美しい。
オリジンオブラブを歌う彼女は神がかっている。映画の後半でほとんど恋に近い感情を抱くほど、彼女は美しかった。
今でもヘドウィグというキャラクターはファンを魅了してやまない。
この映画はLGBTやその周辺者だけでなく、一般の人の胸を打った。公衆に広く訴えかけるメッセージ性があったのだと思う。男でも女でもない、ヘドウィグというアイコンの魅力。世界を変える力というのは、こういうポップカルチャーから生まれるのではないかと私は思った。
それでこちら。第二回カクヨム小説コンテスト応募作品
彼女が好きなものはホモであって僕ではない
https://kakuyomu.jp/works/1177354054881880612こちらも単なるBLとか少年趣味の枠を超えて、広く人々に訴えかける作品になっていると思うので、ちょっとおすすめ。世間の抑圧と、当事者のもつ葛藤。を包み込んで隠さない破けた娯楽のオブラート。
ちょっと下地の針が突き出てますよ、これエンタメ大衆向け作品ですよね、尖り過ぎでは?っていう作品が個人的には大好きなので、そういうのが好きな人におすすめですー。
小説書けなくなってきたから好きなことについて語ってしまった。かのほもは期間外にレビューを入れてしまったので、応援の気持ちも込めて、この記事を浅原さんや読者の方に捧げます。レビューに書けなかった本当の感想をかいたつもり。結果としてほぼヘドウィグの話になってしまった。熱量がねー、しかたなかったんですよ。
映画見たの結構前で、おぼろげな記憶を頼りに書いたから、間違ってたらすまない。