樋口芽ぐむさんにいただいたレビューがたいへんもったいなく、でも示唆深く色々な記憶を思い起こさせてくれたので、すこし存在について語ろうと思った。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890385184/reviews/1177354054890538501 こどものころ、家にたくさんのテレビアニメ絵本とか特撮ヒーローの図鑑なんかがありました。おさがりで大量にもらったものです。幼児がめくっても壊れにくい、丈夫な大判の本です。私はそれを開いて重ねて箱のように組み立てたものを、アパートに見立てて遊んでいました。一部屋ずつフィギュアが住んでいて、家具もあり、空き部屋もあります。
あるいはもう少し大きくなってから。十歳くらいの頃には、自由帳に延々と架空の町を書いていました。
特に物語が展開されるわけではありません。かといって無人と言うわけでもなく、「駅の近くにKFCがあったらいいなぁ」とか「服屋さんのショーウィンドウに水玉のワンピースがならんでいたらいいなぁ」とか、そういう願望を反映させながら、架空の街並みとそこに住む人々の様子を何ページにもわたって描き続けていました。
あるいはお風呂場の浴槽に毛布がつけてあったとき。足で揉んでほしい。と母に言いつかったとき、架空の「飛び込み大会」の実況にずっと興じていました。河童とかうさぎとかよくわらかん生き物たちがひたすら浴槽の縁から毛布が浸かったお風呂に飛び降り(っていうか飛び降りているのはもちろん私なのですが設定的には種々多様な生物が川に飛び込んでいるということになっています)それを見ている審査員たちが点数をつけ謎の評を述べていくという遊びです。
優勝とかはとくにありません。だって全部自分なので。でも出場者のプロフィールとかを考えるのはとても楽しい。
途中で外に母親がいることを思い出し、恥ずかしくなってやめました。実況をすべて声に出していたことにふと気がついて赤面。
夜眠るときも、嫌なことも楽しいことも、いろんな人が色んな部屋でそれぞれの方法で抱えているんだと思うと心が楽になった。
私の創作もそのようなものなのだと思います。百人いれば、百人ぶんの孤独と幸福がある。そのことを思い出すとすこし、自分の持っている分が軽く感じる気がする。
だから、意味の文学と存在の文学という対比で『あし』を語ってくださったのがすごくうれしかったです。そう言えば私は存在そのものが書きたかったんだと思いました。そしてその存在をただ肯定したい。もっと言うと、肯定でも否定でもなく、ただ応と言い続けたい。
そうやって書いたものを、読んだ人がなにか考えるきっかけにしてくだされば、これ以上なく幸せです。優しく誠実な鏡になりたい。
もちろん私の書くものには物語としての起伏が少なかったり、面白みが欠けるところがあるかもしれず、欠点もたくさんあるのですが、それでも私は意味もなく存在している対象を描きたいのだと思う。いただいたレビューに大変励まされました。もちろん樋口さんにいただいたものだけでなく、すべてのレビューや感想。あるいは応援、☆レビューに励まされました。無言の肯定というのもまた、身に染みてありがたいものです。
最近気が滅入ることが多く病みポエムなどをしたためていましたが、これからも小説を書いていきたいと思いました。みなさんにいただいたレビューに恥じないような作品を次も書きたいです。