・俳句・短歌のコンテストが終わった。思いもよらぬほど読まれた。感謝しかない。
ふしぎなもので、期間中は勝手に詩が思い浮かんだのだが、終了するとまったく頭が働かない。また、来年という話であろう。やはり、期限というものは何にせよ、あったほうがいいのかもしれない。
なにかしらの奇跡が起こり、アマゾンのギフト券がもらえないかな。
・いまフィギュアを作っている人は、昔の仏師の後継みたいなものなのかな。歴史的に見るとどうなるのであろうか。作っているものはちがうが、やっていることはよく似ている(と私には見える)。
・ある個人の理想の社会を築かないように歯止めをかけるのが、現代民主主義というものだろう。
・「西浦和也の怖イ話」はいつになったらコラボ企画が終わるのだろうか。しかたがないので、古い動画を観ているのだが、ちょうどいい具合に忘れている。ドラクエ5も途中まで遊んだはずなのに、完全に忘れている。年を取るというのもわるくない。
・私の作品を読んだり、評価してくださったりするのはうれしい話である。
しかし、それ以上に楽しい気分になるのは、私がこの近況ノートで紹介した、他人の作品を読んでもらうことだ。
なまえを挙げることはしないが、数名の方、いつもありがとうございます。
・私は自作語りをされるのが得意ではないので、そういうエッセイや近況ノートは読み飛ばす。そんな私がいまから自作語りをちょっとするので、興味がない方はここでお別れです。
ではでは。夜中になると胃がシクシクする日々。眠れないよ~
・お世話になっている犀川ようさんのエッセイが、私のなまえが出てくるからというわけではないが、おもしろかった。
『わたしのセメタリー』
「第115話 プロの歴史小説とアマチュアの歴史小説の違いを歴女が早口で語る」
https://kakuyomu.jp/works/16818023213320173035/episodes/16818093079792181469 歴史小説を書こうとしている人は、ぜひ読んでいただきたい文章である。もちろん、批判・批評的な目で見たうえで消化してもらいたい。鵜呑みにされたら、犀川さんも本意ではないだろう。歴史小説を書くうえでは、批評眼というものが大事になるしね。
この「志」に関する犀川さんの意見に、私は基本的に賛成である(なにも歴史小説だけでなく、その他の小説においても、「志」のようなものは小説に必要であろうとは思うが。とくに歴史小説においては重要のように考える)。
さて、それでは、私が書いた架空の歴史小説である「スラザーラ内乱記注解」(以下、スラ内)に「志」があったかといえば、ない。
そんなことを考えずに書いたのかと問われれば、真っ先に考えたうえで外した。
スラ内の裏設定としては、「志」を持った者たちが物語の最初にまとめて死んでしまい、その遺志を継ぐ者と志を持たぬ者が戦い、後者が勝つというストーリーである。主役たちに明確な「志」はなく、時代に流されるまま、勝者となるという話だ。
なぜ、そのような話を私が書いたかというと、それはいろいろと理由があるだろうが、まず、第一に、それがよいことかわるいことかわからないが、私が、「志」を持っているようには思えない者たちが政治を行っている社会に住んでいることが大きいように思う。
しかし、ここで一言申し添えておかなければならないのは、「志」のない政治家しかいない社会に暮らすことが不幸かといえば、そうとは言えない。だれが言ったか忘れたが、英雄を必要とする社会は悲惨である。
ちょっと論点がずれるかもしれないが、現在の世界において、英雄やカリスマと呼ばれる人がいなくても、社会がまがりなりにも機能している国は少数である。
よく聞く話だが、日本では、大災害や犯罪に巻き込まれた時、国民は国(社会)が助けてくれると当然のごとく考える。しかし、それは、世界中の国々を見渡せば、めずらしい話だ。たいていの国で頼りにされるのは、家族だけである。
犀川さんの『わたしのセメタリー』はたいへんおもしろく、ためになるエッセイなので、ご一読あれ。
ちなみに、セメタリーとは共同墓地という意味である。あるところに、洗面所だと思っていたおばかさんがいるが、かわいそうだからそっとしておいてあげよう。それはラバトリーである。