・眼高手低という言葉があるらしい。
大修館の四字熟語辞典には以下のようにある
『理想は高いが、実力・技量が及ばないこと。批評はできるが、実際の創作力には乏しいこと』
この言葉にドキリとする人もいるだろう。私もその一人だ。
人気作家の中には、文句ばかり言って、自分は人気のない批判者に対して、「この眼高手低やろうめ!」と思っている人もいるにちがいない。
この文章を読んでいる人には、理解していただける方が多いと思うが、批判するのは簡単である。だれにでもできる。それに対して、物を創るのはたいへんな作業である。(人気作を)自分で書いてから物を言えというのは、想像のつく感情だ。
この眼高手低ということばは、和製漢語である。日本で生まれた言葉だ。
たしかに、昔の大陸では、批評家が高い地位にあり、それにそぐわない言葉かもしれない。
たとえば、画は、だれが評価したかでその価値が大きく左右された。昔の大陸の画をみると、端の方に、歴代の所有者の讃(印鑑)が押されている。この讃のネームバリューで画の価値が大きく決まったのである。
ちなみに、自画自讃という言葉も、和製漢語である。佐久間象山の故事から生まれた言葉。
眼高手低の語源はわからなかった。四字熟語辞典には、使用例として、芥川龍之介の「あの頃の自分の事」というエッセイを引いていた。
すこし読んだのだが、あまりおもしろそうではないので、つづきを読むかは検討中。青空文庫で読める。
いまの作家は、同じ述語がつづくのを避ける傾向にあるが、芥川はそんなことは気にしていない。昨今の流行に過ぎず、また、同じ述語が重なっても気にする人が少ない時代が来るかもしれない。
・カクヨムでいろいろなアマチュアや初心者の小説を読んでいて思ったのは、描写が過剰なような気がする。とくに冒頭。
しろうとは、なるべく描写を少なくして、アイデアやストーリーで勝負した方が、粗が出ないように思う。ストーリーに関係のない描写を、なんとなく入れるのは避けた方がいい。それは上級者のお遊びだと捉えるべきではないだろうか。
いや、私はプロを目指しているのだから、もっと描写を増やしたい、というのならば、質の向上を強く意識しつつ、長編をたくさん完結させることだろう。それに合わせて、注意深くプロの本を多く読んで、技術を盗む必要があるのではないだろうか。
そういう私は、星新一の影響を強く受けているので、ストーリーに関係のない描写は極力避ける方向でいきたい。「プロ」にはなりたくない。
とにかく私は、長い情景描写が苦手で、たとえそれが感嘆するものであっても、もっと短くできないかなと思ってしまう。人それぞれだね。
ではでは。よい休日の午後を。